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こざくら ようこ

小桜葉子

こざくら ようこ

1918.3.4(大正7)〜 1970.5.12(昭和45)

大正・昭和期の女優、美容体操家

埋葬場所: 2区 2種 11側 2番(池端家之墓)

 東京麹町出身。曽祖父は明治の元勲の岩倉具視。祖父は岩倉具定。伯母は東伏見宮依仁親王妃周子(かねこ)。父は岩倉具顕、母は女優の江間光括(青木しのぶ)。旧姓は岩倉。本名は池端具子。妹の昌子も小桜昌子の名で女優。
 1925(T14)7歳で小笠原プロに子役で入り、母のペンネームであった小桜葉子を芸名とする。同年『極楽島の女王』で内藤礼子役でデビュー。翌年、松竹蒲田に移り、『秋の歌』『曲馬団の姉妹』、斎藤寅次郎監督『チンドン屋』等の喜劇に出演、島津保次郎『明日天気になァれ』では飯田蝶子、吉川満子らを共演者に主役を演じるなど名子役として活躍。この間、舞踊・ダンスを家庭教師について勉学。
 '33(S8)伏見信子主演『十九の春』以後、'34には『娘三人感激時代』で水久保澄子と共演、'35準幹部となり、『三人の女性』『吹けよ春風』『人生のお荷物』に主演。'36『結婚の条件』『素晴らしき空想』に出演後、同.10 メロドラマの美男スターとして活躍していた俳優の上原謙(池端清亮:同墓)と結婚し、芸能界から引退した。'37.4長男の加山雄三を出産。'52映画『お茶漬の味』に特別出演した際のクレジットは上原葉子とした。
 戦後は日本における美容体操の草分けとして「小桜式整美体操」を考案し、八重洲で小桜葉子整美体操教室を経営。後に全国に教室を広めていった。息子の加山雄三が若大将シリーズの映画スターとして活躍している時期は、加山の姉と間違われるほど若々しい張りのあるルックスであったという。'66NETテレビ「アフタヌーンショー」に出演。『よりすこやかに』『ふとる体操・やせる体操』『いつまでも若く美しくあるための食事療法と整美体操』などの著書も出した。
 スキーの際に怪我をして、片方の腎臓を失ったことによる腎臓障害のために、子宮癌の発見が遅れたことが原因により、52歳の若さで逝去。葬儀は茅ケ崎の自宅で密葬で営まれた。

<日本芸能人名事典>
<20世紀日本人名事典>


*墓石は和型「池端家之墓」。墓石には眠る人物の俗名や戒名は何も刻まれていない。墓誌もない。多磨霊園事務所で配布している公式パンフレット(東京都公園協会発行)内の著名人墓所欄には「上原謙」と番地が書かれ公になっている。

*小桜葉子が亡くなった1970年5月12日。この二か月後に、上原謙、加山雄三が建て開業(1965)し、小桜の弟の岩倉具憲が経営を任されていた「パシフィックパークホテル茅ヶ崎」の運営会社の日本観興開発(株式会社パシフィック・ジャパン)が23億円の負債を抱え倒産したことが発表された。茅ヶ崎の自宅も6千万円で抵当に入り、ホテルは18億円で売却したが、上原と息子の加山雄三は莫大な債務を抱えた。小桜が亡くなり、倒産発表までの間、加山雄三は若大将シリーズ第16作目の映画撮影を済ませ、二週間で15曲を作りレコーディングを済ませ一か月半渡米。渡米中に倒産が明るみになるのを見据えての動きと推測される。加山雄三はアメリカで若大将シリーズで共演した女優の松本めぐみと結婚し、ロスで式を挙げた。9月半ばに帰国し、記者会見が開かれ経営に対する厳しい質問を浴びせられる中、結婚したことを発表するも結婚に対して祝福する言葉をかける者はひとりもいなかったという。倒産のマイナスイメージと結婚にて世間を騒がせたことにより、若大将シリーズが低迷し映画出演も減少、不遇な時代を迎えるも、10年で債務は自力で完済させた。

<『ラストダンスは私に 岩谷時子物語』(光文社)>


*小桜葉子の妹の昌子も小桜昌子の名で女優。昌子の夫は俳優の三原純(青山五郎)、妹夫妻の子は元ザ・ランチャーズで音楽プロデューサーの喜多嶋修、修の長女(小桜から見て大姪)は女優の喜多嶋舞。

*長男の加山雄三(本名は池端直亮)と女優の松本めぐみ との子で孫は、長男で映像作家の池端信宏、次男で俳優の山下徹大、長女でタレント・料理研究家の梓真悠子、次女で女優の池端えみ。



第53回 加山雄三の両親 上原謙 小桜葉子 お墓ツアー
23億円の負債を10年で完済



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