長野県上伊那郡赤穂出身。1879(M12)左脚上部の大腫瘍により足が不自由になる。1880赤穂高等に進学、その秋に授業生に採用された。
1883授業生を辞し赤穂村役場筆生となる。1886コレラが流行し戸長役場衛生主任として活躍。
1887東京に出て、東京学館(簿記学校)に入学し、わずか3ヶ月で卒業。
翌年、小学校授業生・赤穂青年会の組織・上穂入会地訴訟事務担当・英吉利法律学校員外生を歴任し、1889本田代言人事務所事務員・法律学校正規学生となった。
1891東京法学院(英吉利法律学校)を卒業し、代言人(弁護士)試験に合格。1892法典実施延期論争の勝利。
翌年、弁護士事務所を開業し、弁護士名簿に登録。小樽に上陸し、札幌で中川・小町谷法律事務所開業に続き、小樽で小町谷法律事務所を開業した。
この間、1892北澤重子(同墓)と結婚し、翌年に後に商法学者となる小町谷操三(同墓)が誕生した。
1894小樽商業会議所開所、特別議員に当選。1899小樽埋立利権問題が勃発し、小樽商業会議所埋立問題調査委員長となり、小樽公民会を結成した。
1902小樽区会1級議員に当選。伊藤博文の政友会結党にともない入党した。政友会札幌支部常任幹事になる(後に脱党)。
'04小樽区選出の北海道会議員に当選。'08伊藤博文と対談する。'13(T2)赤穂騒擾事件の弁護人となる。
'17衆議院選挙に当たり、同志と選挙法違反連座により政界を引退した。だが、この件は検察官のでっちあげであった。
しかし、一審有罪を控訴しようとするも老父への気遣いにより一審に服した。これにより弁護士業務に専念することとなる。
'19特赦により名誉回復する。'37(S12)小樽の弁護士を引退し、隠居生活に入る。'45戦争悪化のため、赤穂に疎開。'55東京に移る。
自宅で死去、享年90歳。小町谷純についての著書は、倉内孝治『小町谷 純先生の小樽の思い出』、親戚にあたる北澤博が小町谷純自身が書き残した追憶記6冊をまとめた『純翁追憶記』などがある。