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こぐち ただし

小口 忠

こぐち ただし

1878.12.1(明治11)〜 1942.5.10(昭和17)

明治・大正期の映画監督、脚本家、実業家

埋葬場所: 6区 1種 12側

 東京出身。小口清(同墓)の長男。1917(T6)家督を相続す。
 俳優・劇作家の佐藤紅緑の弟子となる。1908(M41)吉沢商店が佐藤紅緑を部長に考案部を設置、ここに属した。同社が撮影所を新設した際にはサイレント映画の脚本・演出家として関わった。美顔術の取材に訪れた際に みち子(同墓)と知り合い、'10.6 結婚した。
 '12.9.10(T1)所属していた吉沢商店が福宝堂、横田商会、M・パテー商会の4社合併し「日本活動写真株式会社」(日活)が設立される。'13.10 向島撮影所が新設され、同撮影所の所属となった。最初は「狂言方」と呼ばれる脚本を担当。
 '14 日活向島撮影所で映画監督としてデビュー。デビュー作品は「辻うら売り(子の一念)」。翌年「浮雲」「琵琶歌」「母の心」「ルイズに最後」「娘一代」など立て続けに発表。更に「毒煙」「金色夜叉」「夕潮」「乃木将軍」「軍神広瀬中佐」「観音岩」「板垣退助」「三味のもつれ」「恋の深川」などサイレント映画を量産した。'22.8.20 公開された「寒山寺の一夜」を最後に退職した。監督歴 7年半にして 73作品を世に出した。また田中栄三、溝口健二を助監督として後進の指導にもあたった。
 退職後は、妻のみち子が手掛ける事業を手伝う形で実業家に転身した。マスター化粧品の製造販売を開始し好調を博す。'23 三越日本橋本店に美容室を出店したが、同.9.1 関東大震災で被災。全焼したが、ただちに復興させた。なお震災により日活向島撮影所も壊滅し、手掛けた多くの作品が失われた。
 美容室や化粧品の事業は好調であったが、晩年は病いで床に伏すことが多く、肺炎のため逝去。享年63歳。夫の死別により みち子は京橋の美容館を閉じ、美容室は三越日本橋本店の出店のみに縮小した。

<人事興信録>BR><芸能人物事典 明治大正昭和>BR><新婦人協会の人びと(小口みち子)>BR><女性の歴史研究会の永原紀子様より情報提供>


墓所

*墓石前面は「小口家之墓」。右側に「納骨法名」と題した墓誌が建つ。墓誌は小口小太郎(M21.3.9没)から刻みが始まる。右から六番目に小口忠、右から八番目に小口みち子が刻む。小口忠の戒名は無相院窟洞紫水居士、小口みち子の戒名は無量院妙道紫洸大姉。墓所左側に「分家累代」と題し、戒名が刻む標石が建つ。標石の裏面は「祖先歴代」と題して代々の戒名が刻む。

*小口忠の没年月日を多くの人名事典では、1942(昭和17)5月24日とするものが多いが、墓誌には5月10日と刻むので、ここでは墓誌の刻みで紹介する。

*多くの人名事典では小口のヨミを「おぐち」としているものがほとんどであるが、永原先生が小口みち子の二男の正也氏から直接に伺ったところでは、みち子活躍の頃から「おぐち」と言われることが多く、「母は、もうコグチでもオグチでもどっちでもいいわ。訂正するのもめんどくさい、と話していました」とのことであり、正式は「こぐち」が正しい。よって、ここでは「こぐち」で紹介します。

*小口忠とみち子との間に2男2女を儲ける。みち子は美容家、歌人、婦人運動家の三つの顔を持ちつつ、子育ても両立した。第一子長女の総子(1911.9-1913)は麻疹で早死(同墓)。二女は静子(1915.3生)。長男は達也(1917.5-1989.5.28:同墓)。二男は正也(1919.5生)。

*小口家の墓はもともと谷中霊園にあったが、京浜東北線の新設に伴い多磨霊園に移転させられた。なお京浜東北線の開業日は、1914.12.20 であるが、北側の東北本線大宮駅までの新設は、1932(S7)であるため、昭和の初め頃に多磨霊園に改葬されたと推測する。



第480回 7年半で73作品 日活向島撮影所 サイレント映画監督
小口忠 お墓ツアー


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