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こだま とくたろう

児玉徳太郎

こだま とくたろう

1856.6.24(安政3.5.22)〜 1905.10.27(明治38)

明治期の陸軍軍人(少将)、男爵

埋葬場所: 13区 1種 5側

 和歌山県出身。紀州藩士の子として生まれる。早くより軍籍に入り、1875(M8)陸軍少尉、1894臨時鉄道隊長に就任し、工兵大佐となる。 1896工兵会議審査官、1899対馬警備隊司令官、1900陸軍少将に進み、1901工兵会議議長、'03築城本部長に歴補した。
 '04日露戦争には第1軍工兵部長として出征し、第1軍司令官であった黒木為楨(8-1-2-15)大将の下、鴨緑江の戦いで勝利に貢献したが、遼陽に於て陣没した(遼陽会戦)。 正4位 勲2等 功3級。享年49歳。この功により'07.10.2(M40)長男の児玉清雄に男爵が授けられた。清雄の後は、勲雄が爵位を継承する。

<日本陸軍将官総覧>
<平成新修旧華族家系大成>
<日本の名門1000家>


墓所

*墓所内には同じ大きさの墓石が二基並ぶ。左側墓は正面「陸軍少将 正四位 勲二等 功三級 兒玉徳太郎 夫人初音子 之墓」。右面には児玉徳太郎の没年月日「明治三十八年十月二十七日歿」と刻み、左面には夫人の初音子の没年月日「明治三十九年五月二十四日歿」と刻む。裏面には「昭和十二年十二月青山ヨリ改葬」と刻む。右側墓は正面「兒玉家累代之墓」と刻む。

*「人事興信録」では児玉清雄は二男となっている。


【鴨緑江(おうりょくこう)の戦い 1904.4.30-.5.1】
 鴨緑江の戦い(鴨緑江会戦・鴨緑江渡河作戦とも)は日本陸軍第1軍(3個師団42000名)が鴨緑江を渡河して満州へ向かう途中で、これを阻止しようと待機していたロシア陸軍(2個師団24000名)との間で起こった一連の戦いである。
 大日本帝国の指揮官は第1軍司令官であった黒木為楨(8-1-2-15)大将。 ロシア帝国の指揮官はシベリア第2軍団ミハイル・ザスリッチ中将。 ザスリッチは兵力を分散配置して戦ったのに対し、日本側は十分な火砲を持って攻撃し損害を与えた。 これはザスリッチが自軍の兵力に過信していた結果であると分析されている。 日本側の死傷者は1000名程度、ロシア側は1800名程度であり、ロシア側は全軍を用いての決戦を避けて、早期退却を行ったため、日本側は渡河を完了した。


【遼陽会戦 1904.8.24-9.4】
 遼陽会戦とは日本陸軍の主力(125000名)とロシア軍の主力(150000名)が衝突した満州と朝鮮半島などの権益を巡る戦い。 場所は中国遼寧省遼陽付近であったため、遼陽会戦と名付けられる。日本側の指揮官は大山巌、ロシア側はアレクセイ・クロパトキン。
 会戦はロシア軍が防御網を展開し、日本側は側撃、夜襲でロシア軍を駆逐。結果、ロシア側が奉天へ撤退し日本は辛勝する。 死傷者は日本側が23500名、ロシア側が20000名。勝利した日本もハルビン攻略が望めず、基本戦略の変更を余儀なくされるほどの打撃を受けた。

<日本史辞典など>


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