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きたおか じゅいつ

北岡壽逸

きたおか じゅいつ

1894.7.2(明治27)〜 1989.6.7(平成1)

大正・昭和期の内務官僚、経済学者、社会政策学者

埋葬場所: 11区 1種 18側

 奈良県吉野市出身。造り酒屋の家に生まれる。弟の北岡馨は工学者で東洋大学教授。甥に奈良県吉野町長を務めた北岡茂、北岡篤がいる。又甥に政治学者の北岡伸一(茂の子)がいる。
 1918(T7)東京帝国大学法学部政治学科卒業。農商務省に入省。'22新しくできた内務省社会局に転身し監督課長、国際労働機関帝国事務所長(ILO日本政府代表)として労働政策の担当を務めたが、'38厚生省ができて社会局はそれに吸収されることになった。それに伴い、廃官退職を予告された。
 '39(S14)東京帝国大学教授となる。河合・土方事件(河合栄治郎と土方成美を社会的に抹殺しようとした右翼・軍部・ファシズム勢力による思想弾圧事件のことであり、東大総長の平賀譲による「平賀粛学」により大学の綱紀紊乱と「東大再建の障害」との理由で1939年2月13日、休職発令される)で休職処分となった河合栄治郎の後任として経済学部社会政策講座を担当。人口問題研究所に属し、社会政策の観点から人口論を展開し早くから家族手当制度について言及していた。'41人口問題研究所研究官を辞し、住宅営団理事に就任。
 戦後は、'46.6住宅営団副理事長に任ぜられる。同.8経済安定本部第四部長となり(〜翌.4)、同.12住宅営団閉鎖に伴い、同営団副理事長を退任。'47.12財団法人国際連合協会設立と共に常任理事に依嘱された。
 '48東宝取締役・砧(きぬた)撮影所所長に就任。大量の解雇を通告して東宝争議を引き起こしたが、占領軍の協力をえて武力で収拾した。
 '49國學院大學教授となり、'72停年退官し、名誉教授。この間、'52自衛軍建設声明などを出し、反動の代名詞となる。著書に『社会政策概論』『失業問題』『労働法講義』など。勲2等瑞寶章。享年94歳。

<講談社日本人名大辞典>
<20世紀日本人名事典など>


墓所

*墓石は和型「北岡家之墓」。左側に墓誌がある。戒名は刻まれず(他の人たちにはある)「國学院大学名誉教授 経済学博士 勲二等瑞寶章」と俗名、没年月日、行年が刻む。同墓に海軍主計少佐で戦死した北岡勇も眠る。


【東宝争議(とうほうそうぎ)】
 1946年から48年にかけて三次にわたり、日本の大手映画製作会社の東宝で発生した労働争議を指す。北岡壽逸が関与したのは、1948年の第3次争議であり、最も大規模なもので、最終的には撮影所の接収に警視庁予備隊及び連合国軍の一員として日本の占領業務にあたっていたアメリカ軍までもが出動した。
 事の発端は1947年12月に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)が東宝に追放令を発し、経営陣が入れ替わった。翌年4月8日に東京砧(きぬた)撮影所従業員270名を突然解雇。更に人員整理のため1200名の解雇計画を発表した。これを受けて、4月15日に従組は生産管理闘争に突入、東京砧撮影所を占拠して資機材を管理下に置き、正面入り口にバリケードを作って立てこもった。これが第3次争議の始まりとされる。米軍の露骨な介入に対し「空には飛行機、陸には戦車、来なかったのは軍艦だけ」と知れ渡った事件となった。


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