石川県金沢市出身。本名は政次(まさじ)。貧しい旧加賀藩士の三男として生まれる。
東京帝国大学東京法科大学政治学科卒業後、東京府の官吏、保険会社、出版社を経て、記者生活に入り、「下野新聞」「大阪毎日新聞」「大阪朝日新聞」などを転々とした。
1910(M43)「信濃毎日新聞」主筆として長野へ赴任し主筆を務める。明治天皇の崩御に伴い殉死した乃木希典陸軍大将を批判した社説『陋習打破論』は反響を呼ぶ。陋習(ろうしゅう)とは「わるい習慣」という意味である。'14(T3)シーメンス事件に関して『政友会の正体』と題して政友会を批判し攻撃。しかし、主筆をつとめる信濃毎日新聞社長の小坂順造(8-1-13)は、政友会所属の衆議院議員であったため退社を余儀なくされた。
同年、新愛知新聞の主筆として名古屋市に赴任。信濃時代と変わらぬ反権力をかざして執筆し、10年間活動。'24 新愛知新聞を退職し、衆議院議員選挙に無所属で立候補したが落選。落選後、自ら新聞を発行するも1年も持たずに廃刊になり、負債だけが残る状態になる。
そんな時、'28(S3)再び信濃毎日新聞の主筆として声がかかり復帰した。'33.8.11 軍部の不合理を批判した『関東防空大演習を嗤ふ(わらう)』を発表。これは関東一帯で行われた防空大演習に対して、敵機の空襲があったならば木造家屋の多い東京は焦土化すること、被害規模は関東大震災に及ぶであろうこと、空襲は何度も繰り返されるであろうこと、灯火管制は暗視装置や測位システム、無人航空機などの近代技術の前に意味がないばかりか、パニックを惹起し有害であることなどを論じた。この論は発表した12年後に実際に起こる東京大空襲の惨状をかなり的確に予言したものとなる。更に論説は敵機が関東の空に迎え撃つということ自体が、わが軍の敗北そのものだ。すなわち、航空戦は空撃したものの勝であり空撃されたものの負であると主張した。この言説は軍国主義化の途上で国威発揚を扇動していた陸軍の怒りを買い、圧力により、またしても信濃毎日新聞を退社させられた。
以降、名古屋郊外で個人雑誌「他山の石」を発刊。自由主義的立場で軍部に屈せず、不撓不屈の軍国主義批判を続けた。
'33 慢性の咽喉カタルを自覚していたが、'41に至って、急にのどの腫物が大きくなり呼吸困難を感じ始めた。この時本人はがんだと知らなかった。
「他山の石」は発禁につぐ発禁にも屈せず書き続け、病や発禁の事態にもめげず「他山の石」を発行し続けていたが、'41「廃刊の辞」を載せた最後の「他山の石」8月20日号が読者の手に届いた9月10日夜半、喉頭癌のため生涯をとじた。享年68歳。
9月12日の葬儀に、憲兵が「他山の石」発行停止命令を持ってやって来たとき、長男の桐生浪男(同墓)が父の辞世の句「蟋蟀(こおろぎ)は 鳴き続けたり 嵐の夜」と口ずさんだという。'69『桐生悠々反軍論集』、'73『桐生悠々自伝』(太田雅夫編)がある。