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きりゅう ゆうゆう

桐生悠々

きりゅう ゆうゆう

1873(明治6)〜 1941(昭和16)

明治・大正・昭和期のジャーナリスト

埋葬場所: 26区 1種 28側

 本名政次。官界・実業家などをへて記者生活に入り、「下野新聞」「大阪毎日新聞」「大阪朝日新聞」などを転々としたのち、1910(M43)「信濃毎日新聞」主筆として長野へ赴任。 「陋習打破論」で乃木の殉死を、「政友会の正体」で政友会を批判。14(T3)「信濃毎日」を退社し「新愛知」主筆となる。24「新愛知」を退社し衆院議員に立候補し落選。 28(S3)再び「信濃毎日」の主筆となったが、33軍部の不合理を批判した「関東防空大演習を嗤ふ」を発表、圧迫をうけて退社。 翌34以来、名古屋で個人雑誌「他山の石」を発刊、自由主義的立場で軍部に屈せず、言論活動をつづけた。著書に「桐生悠々反軍論集」1969、「自伝」1973。

<コンサイス日本人名事典>


*1932(S8)『関東防空大演習をわらう』という社説を書いて軍部の怒りを買い、信濃毎日新聞主筆の地位を追われ、名古屋郊外の守山の自宅で個人雑誌「他山の石」を発行して、不撓不屈の軍国主義批判を続けた。 '33慢性の咽喉カタルを自覚していたが、'41に至って、急にのどの腫物が大きくなり呼吸困難を感じ始めた。この時本人はガンだと知らなかった。 発禁につぐ発禁にも屈せず「他山の石」に、県当局から廃刊命令が'41(S16)8月である。 病や発禁の事態にもめげず「他山の石」を発行し続けていたが、「廃刊の辞」を載せた最後の「他山の石」8月20日号が読者の手に届いた9月10日夜半、彼はその生涯をとじた。太平洋戦争勃発三ヶ月前である。 9月12日の葬儀に、憲兵が「他山の石」発行停止命令を持ってやって来たとき、長男の浪男は父の句を口ずさんだ。「蟋蟀(こおろぎ)は鳴きつづけたり嵐の夜」 この句は墓所内の句碑として刻まれている。

<「人間臨終図巻」山田風太郎>


墓所

*墓誌には本名と筆名両方刻み、また自筆の句も刻まれている。


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