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きくち さんさい

菊池山哉

きくち さんさい

1890.10.29(明治23)〜 1966.11.17(昭和41)

明治・大正・昭和期の土木技師、
郷土史家、政治家、多磨墓地建設現場監督

埋葬場所: 9区 1種 1側

 神奈川県北多摩郡府中宿(現在の東京都府中市宮町)出身。本名は菊池武治(きくち たけはる)。山哉(さんさい)は号。
 府中町立高等小学校を首席卒業し、私塾至誠学舎、原田塾に通ったのち、工手学校(工学院大学)で土木を学ぶ。1908 東京府庁で技官となり、1912 東京市役所の河港課に転じる。1916 河港課護岸堤防設計ならびに検査主任となる。その後、東京市河港課から公園課に転属。多磨霊園生みの親の井下清(8-1-18-18)の計画設計から多磨霊園が誕生することになるが、その際、日本初公園墓地の多磨墓地建設工事の現場監督を務めた。'22(T11)より工事が着工とともに着任。
 なお多磨霊園開園初期は1区から22区までであり、23区から26区は戦後増築した場所である。また当初の設計計画では小金井口を想定せずに着工し、途中で広大過ぎる多磨墓地を正門のみではなく反対側からも出入りできるように変更したため、多磨霊園は正門から小金井口は直線で繋がっておらずにズレている。'23.4 多磨霊園開園、9.1 関東大震災発生。公園課の職員として救援活動に尽力し、東京市長の後藤新平から感謝状を受けた。同年、東京市を退職し独立。
 独立後、'24 前田侯爵家から深川の海面や鴨池15万坪の埋め立て工事ならびに護岸工事を請け負う。次いで同地の開発経営の管理人となる。翌年には深川区区画整理委員も務めた。
 このように土木技師・菊池武治の顔をもつ一方で、郷土史家・菊池山哉として同時並行で活動した。
 1912(M45)東京人類学会、歴史地理学会、考古学会などに入会し研讃を重ね、その研究を各誌界に発表。特に考古学、民俗学に博識であった。'23(T12)自費出版した『穢多族に関する研究』と、'27(S2)『先住民族と賎民族の研究』で被差別民とはなにかを問う書物を発刊。これは日本の先住民族とも言うべき「イヱッタ」族に被差別民の起源を求め賤民起源論を主張したものであるが、賛否両論を呼び、部落解放運動団体の全国水平社から差別図書とされ糾弾を受け発禁された。と同時に賎民研究の第一人者としても注目された。なお戦後、本人がこの説は無理があったと認めている。
 '33 多麻史談(多摩史談)会 (後に東京史談会と改む)を創立。'35 代表作となる『沈み行く東京』を出版。'43 翼賛選挙に推されて東京市議会議員に立候補し当選。深川地盤沈下問題をとりあげ、防波堤建設の必要性を説いた。'45.3.9 大空襲の被害を受け、多磨霊園の近くの北多摩郡多磨村に疎開移住。戦後、'46から現在の府中市浅間町に転居した。
 '56 府中市文化財専門委員会議長、続いて府中市史編纂委員副会長、監修者を務めた。主な著書に『蝦夷と天の朝の研究』『長吏と特殊部落』『別所と俘囚』、遺著は『東国の歴史と史跡』などがある。
 山哉は郷土史研究家として猿渡盛厚と共に双壁とされ、郷土に残した足跡は大きかった人物である。享年76歳。

<20世紀日本人名事典>
<多摩の人物史317頁>
<多磨墓地の設計経緯に関する研究>


きくち さんさい 墓所

*墓所入口正面は五輪塔が建ち、それを取り囲むように代々の小墓が建つ。五輪塔の右手側に、「菊池山哉之墓」が建つ。 墓石の手前に菊池山哉の墓誌碑。戒名は寿照院史山晃哉居士。その右側に「菊池家之墓」と墓誌がある。



第323回 多磨墓地建設現場監督 土木技師 郷土史家
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