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かわかみ としつね

川上俊彦

かわかみ としつね

1861(文久1)〜 1935(昭和10)

明治・大正・昭和期の外交官(スパイ)

埋葬場所: 6区 1種 12側

 新潟村上本町飯野に村上藩士150石の川上泉太郎の長男として出生。藩校「克従館」に学び、1884(M17)東京外語大ロシア語科卒。 外務省に入省、貿易事務官としてウラジオストク駐在中、日露戦争勃発で避難するロシア在留邦人の脱出を指揮。 1905(M38)1月旅順陥落時の乃木・ステッセル会談のロシア語通訳を務める。1909(M42)10月ハルビン総領事として伊藤博文をハルビン駅頭で迎え、伊藤暗殺の際、流れ弾にあたり重傷を負った。 ロシア革命時に混乱するロシアを視察し、革命の状況を日本に連絡。シベリア出兵後のソ連との基本条約締結に向けた交渉の中で、後藤新平に命ぜられソ連代表ヨッフェとの予備交渉にあたった。 ロシア後方かく乱謀略に従事してポーランド独立運動の指導者と接触し、その縁でポーランド独立後の1921(T10)初代公使に赴任。 その間ハルビン・モスクワ各総領事、また満鉄理事、ハルビン学院の創立への尽力などを歴任。その後、1927(S2)北樺太鉱業設立とともに社長に就任、のち日魯漁業社長も兼ねた。 明治から昭和にかけての日露・日ソ関係にかかわった、もっとも重要な外交官の一人である。娘は松本憲法草案で有名な松本烝治(3-1-17)の息子に嫁いだ。

<コンサイス日本人名事典>


*墓所内墓石「川上家」の裏面に建立者として川上俊彦の名が刻む。他に彫刻はなく、墓誌もない。右側に洋型の墓石があり、竹山謙三郎と表面に刻む。

*竹山謙三郎は建築構造学の重鎮であり鹿島技術研究所4代目所長を務めた(在任1963〜1969)。 1966(S41)所内に電子計算センターを新設し、日本初の超高層「霞が関ビル」の建設に大きな貢献を果たした。 建築研究振興協会設立発起人。

*竹山謙三郎は川上俊彦の娘と結婚し、竹山家が川上家の墓所を継承したようだ。 なお、その息子の竹山雄太郎(ご健在)は皇太子と雅子様の橋渡し(お任い)をされたうちの一人であり、建設省研究所所長を務めた人物である。


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