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きんざん かわい

琴山河合

きんざん かわい

1865(慶応1.6.16)〜 1931.3.14(昭和6)

明治・大正・昭和期の林学者(森林利用学)

埋葬場所: 7区 1種 11側 26番

 尾張国名古屋(愛知県)出身。士族の河合堅造・雪子(共に同墓)の長男として生まれる。本名は河合し太郎(「し」の字は「金+市」)。号を琴山とし、琴山河合と名乗る。
 1890(M23)東京帝国大学農科大学林学科卒業。1897母校の助教授となり、1899林学博士の学位を受ける。同年、森林利用学研究のためドイツとオーストリアに留学。1903帰朝後は母校の教授に就任。
 後藤新平の台湾民政長官時代に招かれて渡台し、阿里山の森林資材の開発と、登山鉄道阿里山森林鉄道を敷設して開発の端を開く。これはカタツムリをヒントに何重も渦を巻くように旋回するスパイラル・ループ線による登坂や、独立山の三重スパイラルループ、頂上での八の字ループの組み合わせなど、「ループ線」案を次々と提案し実行した。この案は最初、財務的理由や帝国議会に理解されず否決されるが、困難を乗り越え議会でも理解を得、'12阿里山線を開通させ、'14沼の平の阿里山駅まで全通した。全線開通後の森林伐採と植林による資源保護も指導を行った。これらの功績により「阿里山開発の父」と称され、門下生らによって阿里山に「琴山河合博士旌功碑」が建つ。しかし、その後、開通したことで森林開発が加速され、台湾の木材輸出は旺盛となり、貴重なタイワンベニヒノキが続々と伐採される光景を見て過度の開発に加担したことを後悔したという。
 学問的関心が広く、漢学及びドイツ語に堪能で文才があり、晩年には哲学も研究。また林学の方面では第一流の人物であったが、山林史に興味を持ち、日本山林史の研究により、日本の林学の基礎を開くことを主張した。'26(T15)教授を辞す。著書に『測量学』(1895)、『実用森林利用学』(1908)があり、1901『木材識別法』はこの種のものとしてはわが国最初の好著である。従三位。享年65歳。

<平凡社『日本人名大事典』>
<講談社日本人名大辞典>
<20世紀日本人名事典>


墓所

*墓所には計5基の墓石が建つ。正面は洋型「市河家」の墓石。この墓石を挟んで、右側に「河合(金+市)太郎墓」、左側に「妻 保子墓」が建つ。 河合し太郎の孫娘であるサダヲが生理学者の市河三太に嫁ぎ、市河家が墓所を継承したと推察する。市河家の墓石は平成元年二月に市河三太・サダヲが建之。墓所右手側に「河合堅造 / 同 雪子 之墓」(河合し太郎の父母)が建つ。 墓所左手側に児玉周一(1892-1976)・児玉阿里(1904-1969)の洋型墓石が建つ。前面に二人の名前の他「自然に生を受け 結ばれて五十年 隣人愛に孚なれつ 再び自然の懐に還る」と刻み、裏面には「天ハ生ヲ人ニ与ヘ 地ハ還しル者ヲ抱ク」と刻む。


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