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いちかわ さんた

市河三太

いちかわ さんた

1921.3.31(大正10)〜 2013.7.5(平成25)

昭和・平成期の生理学者

埋葬場所: 7区 1種 11側 26番

 東京府豊多摩郡原宿出身。1946(S21)東京慈恵会医科大学卒業。'47 横浜市立医学専門学校生理学教室助手。'52米国オハイオ州立大学医学部に留学し、平滑筋の電気生理学(犬胃の活動電位)の研究。'54帰国し横浜市立大学医学部講師を経て、'57昭和医科大学(昭和大学医学部)教授に就任した。'59平滑筋筋電図関係を脳波筋電図学会より独立させようと平滑筋筋電図研究会(後の日本平滑筋学会)の発起人の一人となる。
 '60年米国ニューヨーク州ロチェスター大学医学部に留学。で消化管運動の調節系としての脊髄波に関する研究をした。'61研究副教授。同年、米国ニューヨーク州コーネル大学客員教授。'63帰国し、昭和医科大学教授に復職。胆汁排泄機構の研究を立ち上げ、胆嚢の収縮とOddi括約筋の弛緩についての神経機構等を調べる一方、消化管・尿管・子宮等の電気現象の発生、調節についての研究を行う。'68米国ニューヨーク州立大学Upstate Medical Center客員教授。'76第18回日本平滑筋学会会長。
 教育にも熱心に取り組み、質問に来る学生と定期的にセミナーをしてより深い理解を助けた。整理整頓は大事とし「生理学は整理学である」と説いた。また看護師教育にも熱意を示し、特に看護師の社会的地位の向上が必要と考え、付属看護専門学校兼任講師として指導した。その他、図書館長なども務めた。'86昭和大学を停年退官し名誉教授。
 以後、横浜女子短期大学教授、松戸市立病院付属看護専門学校非常勤講師。'90(H2)横浜女子短期大学客員教授。'91東京薬科大学、昭和大学薬学部兼任講師停年退職。'92相模女子大学学芸学部兼任講師。'93学校法人花田学園日本鍼灸医療専門学校非常勤講師。'95勲三等瑞宝章受章。日本生理学会の教育委員、日本生理学雑誌編集委員、生理学用語委員も務め、日本生理学会評議員なども歴任した。
 全ての出来事を手帳に書き込むメモ魔であり、この資料をもとに著した『三太雑記』がある。その他の主な著書に、『基礎生理学』『新版 図説生理学』『運動生理学』『運動生理学テキスト』『解剖生理学』など多数。老衰のため逝去。享年92歳。

<「市河三太先生を偲んで」昭和大学名誉教授 本間生夫 など>


墓所

*墓所には計5基の墓石が建つ。正面は洋型「市河家」の墓石。この墓石を挟んで、右側に「河合(金+市)太郎墓」、左側に「妻 保子墓」が建つ。 市河三太の妻は琴山河合(河合(金+市)太郎)の孫娘のサダヲ(同墓)。市河家の墓石は平成元年二月に市河三太・サダヲが建之。市河家が墓所を継承したと推察する。墓所右手側に「河合堅造 / 同 雪子 之墓」(琴山河合の父母)が建つ。 墓所左手側に児玉周一(1892-1976)・児玉阿里(1904-1969)の洋型墓石が建つ。琴山河合は台湾の「阿里山開発の父」と称された人物であるため、阿里の字をとっている児玉阿里は琴山河合の娘であると推測する。児玉家の墓石前面に二人の名前の他「自然に生を受け 結ばれて五十年 隣人愛に孚なれつ 再び自然の懐に還る」と刻み、裏面には「天ハ生ヲ人ニ与ヘ 地ハ還しル者ヲ抱ク」と刻む。


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