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かわだ はるひさ

川田晴久

かわだ はるひさ

1907.3.15(明治40)〜 1957.6.21(昭和32)

昭和期の歌謡漫談家、俳優

埋葬場所: 10区 1種 13側 8番

 東京都本郷区根津八重垣町出身。印刷所経営者の岡村嘉松・ちかの次男として生まれる。本名は岡村郁二郎(おかむら いくじろう)。旧芸名は川田義雄。弟にミルクブラザースで活動を共にする岡村龍雄(本名は岡村隆吉)がいる。
 幼少期は父親が生活費を家に入れず放蕩を繰り返したので生活は貧しかったとされる。1916(T5)9歳の時に家々の屋根を棒で飛び越えるという遊びに興じていた際に腰から地面に転落。この事故により左足からカリエス(骨の慢性炎症、しびれや麻痺)になり、終生悩ませることになる病を患う。'19尋常小学校を卒業しブリキ工場へ子守の丁稚奉公に出るがカリエスの影響で長続きせずに実家に戻る。通院と自宅療養が続く中で、音楽好きなことから友人と購入したバイオリンやハーモニカを親しんだ。以降、デビューするまでの間は定職に就かず、親から治療代をもらっては、そのお金でカフェに通いレコードを聴き、活動写真を観るなどの遊蕩の日々を送る。この間、'27(S2)移住地の東京小石川一帯で火事があり家が焼失。この火事で左足のカリエスの手術の跡が破れ膿が流れるなど悪化した。
 '30.7(S5)安来節の「濱田梅吉一座」とレビューの「木村時子一座」が、浅草の音羽座にて合同公演を行った際に、のど自慢のテストで合格。その流れで、月給15円の契約で、同.7.11浅草音羽座でレビュー歌手・川田義雄としてハーモニカを持ってデビュー。当時、絶大な人気を誇ったテナー歌手・藤原義江に傾倒し真似をしていたことから、テノールを表す「川」とローカルカラーを表す「田」、それに藤原義江からの「義」を取って、男だから「雄」で『川田義雄』を芸名として名乗ったとされている。芸名由来は他にも諸説あり、木村時子一座の師弟関係でありファンであったカワベ・キミオから、カワベの「川」、カワベの本名の田中の「田」で『川田』とした説もある。
 '31.1音羽座の一座が解散したため、カワベ・ミキオと共に「ジャズ・オブ・トーキョー新劇レビュー一団」を旗揚げし、浪曲の虎造節をジャズにアレンジした“川田節”で売り出すため全国旅回りに出る。朝鮮、満州にまで足を伸ばしたが、同.9満州事変に遭遇し帰国し、'33頃まで名古屋や横浜で公演を行った。当時の公演記録ではカワベ・ミキオ一座と明記されているものもあるため様々な一座を転々としていたとされる。
 '33.2吉本興業が横浜花月劇場にレビュー劇団「グラン・テッカール」を旗揚げされ一員となる。また、'34吉本興業の持ち小屋の浅草万成座で公演。当時は「エンタツ・アチャコ」「柳家金語楼」「柳家三亀松」の三枚看板が人気であり中心的ではなかったが、徐々に「グラン・テッカール」の独立興行が始まる。しかし、'35.2「グラン・テッカール」解散し、ピン芸人として活動。同.11浅草花月劇場オープン「吉本ショウ」が始まる。永田キング(当時有名だった外国のコメディ俳優マルクス兄弟の模写などで人気を博す)のグループ「永田キング一党」に加わり、中心メンバーとしてステージで活躍した。
 '37.5.21吉本ショウのマンネリを打破するために若手と伝説のボーイズ第一号「あきれたぼういず」を結成。メンバーであった坊屋三郎によると、流行歌にオチを付けた漫談をしようとの狙いから、流行していた美ち奴(みちやっこ)のヒット曲「ああそれなのに」のパロディを演じたところ観客から大受けしたため、以後、坊屋三郎、坊屋の実弟である芝利英、益田喜頓とグループを組み、浅草を基盤とした人気コメディアンの座に駆け上がることになった。
 '38.8この人気に目を付けたビクターレコード協力のもと『アキレタ・ダイナ』『あきれた演芸会』を発売予定であったが、内務省の検閲に引っ掛かり発売禁止となった。同.12台本を書き直し新たに、SP盤レコード『四人の突撃兵』『スクラム組んで』『空晴れて』をビクターから発売し、爆発的に売れ、「あきれたぼういず」の人気が全国区となった。これにより、日劇で『オーケストラの少女』の実演のため丸の内に進出。客が日劇を三回半するほどの盛況であった。'39.1古川ロッパ一座の有楽座興行に特別出演、映画『ロッパの大久保彦左衛門』にも初出演。単独でも東宝映画『東京ブルース』『ロッパの新婚旅行』に出演。後楽園のプロ野球の余興出演やエノケン一座にも特別出演するなど各方面から出演依頼が殺到した。また『商売往来』『珍カルメン』『四文オペラ』『浜辺の抒情詩』『大人の四季』といった舞台でのヒット作をビクターからレコード化。個人でもレコード『浪曲ダイナ』『浪曲セントルイスブルース』を発売。昭和初期から絶大な人気のあった浪花節(浪曲)の節回し、特に広沢虎造のいわゆる「虎造節」を川田がギターに乗せて歌うという新機軸を拓く。日本的な浪花節のリズムをギターで巧みに演奏する川田の芸風は、それまでの三味線漫談や、エノケンやロッパにはない新しさを以って大衆に受け入れられ、特に学生やインテリ層を中心に人気を広げていった。
 '39.3.11人気絶頂期に吉本ショウの踊り子の櫻文子と再婚(前妻は一般人で離婚している)。吉本興業常務取締役の林弘高の媒酌で根津神社にて華燭典を挙げ、その日の夜から熱海へ新婚旅行に出かけた。
 実はその当日、振興キネマ演芸部から引き抜き話があった。撮影所所長の永田雅一と「あきれたぼういず」メンバーが帝国ホテルで会談し契約金1万円を受け取る。同じ時期に吉本興業所属の「ミスワカナ・玉松一郎」「香島ラッキー・御園セブン」の人気芸人が振興キネマに引き抜かれ騒動となり、吉本興業が警戒して、川田夫婦を接触させないようにと宮城県花巻温泉や伊東、伊香保の旅館に約40日間軟禁した。マスコミもこの騒動を大きく取り上げた。結果、川田を除く坊屋、益田、芝の3人は雲隠れした後に振興キネマに移籍し、契約してしまっていた川田は破棄して受け取った契約金の自分の取り分3500円を返却し吉本興業に残ることを決意。これにより「あきれたぼういず」は事実上の解散となった。
 川田は吉本興業に義理もあり残ったが、多くの人気芸人が移籍をした背景は、吉本ショウの過密スケジュール問題があった。1日3回公演で1組の持ち時間は15分から20分。10日で新しい演目に替わる日程であり、楽日3日前からはショウ終了後、深夜まで次の演目の稽古が始まり家に帰れず劇場に泊まり込む者も多くいた。また構成作家がいないためネタは自分たちで考えねばならなく、川田は台本係であった。更に合間を見てレコードのネタ作りと吹き込みを行い、外部演出や劇場掛け持ちもあり、365日休みはなかったという。なお振興キネマは「あきれたぼういず」引き抜きの際の契約条件として、独立した興行をする。一流のバックバンドをつける。8人以上のダンサーを付ける。構成作家を付け1カ月同じネタの興行。月給300円にする。という内容であったようだ。当時の月給は川田が二百円、芝と坊屋が百五十円、増田が百二十円。臨時出演の手当ては一文もなく、仕事が増えても一律の金額だったという。ビクターのレコードの印税は四面吹き込んで4人で六十円(1人15円)だった。なお、当時の大卒の初任給は75円である。
 この頃の映画界は東宝と松竹がライバル関係であり、二大勢力図のもと俳優の引き抜き合戦がおこなれており、また東宝は宝塚歌劇団・松竹は松竹歌劇団、東宝は日劇・松竹は浅草國際劇場を新築と対抗。そんな中、東宝と吉本興業が手を組んだため、松竹が対抗するべく子会社として振興キネマ演芸部を創設した。吉本興業所属の人気芸人の引き抜きは二大勢力の対抗でもあり、また強行移籍は芸人全体の労働環境に対する意識改革の意味も込めてであった。川田を除いた移籍した三人は山茶花究を加え新編成の「第2次 あきれたぼういず」として活動した。
 吉本興業に残った川田は新たに実弟の岡村龍雄、頭山光、菅井太郎(菅井が抜けた後は有木山太と交代)と新生グループ「川田義雄とミルク・ブラザース」(英語版 ミルス・ブラザースのもじりであり、乳兄弟の洒落でもある)を結成。吉本ショウで中心的に活躍していく。'40レコード『地球の上に朝が来る』が大ヒットし、川田のテーマソングとして生涯オープニングテーマとして歌い続けた。この「地球の上に朝が来る〜、その裏側は夜だろう〜」のフレーズは「犬が西向きゃ尾が東」という浪花節でよく用いられる対極を歌った独特のセンスを踏襲しており、ここに川田のギター漫談のスタイルが確立された。
 エノケン、ロッパ、エンタツ、アチャコといった喜劇のスターにたちまち肩を並べた川田は、東宝映画『ハモニカ小僧』に主演。'41当時の大スター長谷川一夫と映画『昨日消えた男』(監督:マキノ正博)で共演するにまでに至った。レコードにおいても『ドレミファ物語』『バナナ物語』などをヒットさせ、この頃から『かわった数え唄』など、自身の名前をもじった「かわった○○」シリーズを川田流のパロディとして定着させていく。
 '41.7 来年4月で契約が切れる吉本興業と向こう5年間の契約延長を契約金1万円で行う。これに家族は大反対、「ミルク・ブラザース」のメンバーたちも個々独立をほのめかすようになる。11月から朝鮮や満州へ巡業を行っているとき、京城にて日米開戦が勃発したため帰国。'42.4浅草花月劇場を中心に舞台、映画の実演の活動を行っていたが、大阪北野劇場の公演中に倒れる。北野劇場の公演は千秋楽まで続けたが、カリエスの再発であり、翌月東京に戻り入院。左足だけのカリエスが脊髄・骨盤・右足大腿部と広がっており大手術を受ける。川田の入院、吉本興業への不審、戦争悪化のため「ミルク・ブラザース」は事実上の解散となり、川田も療養のため一切の活動を休止した。
 '43.8「川田義雄一座」を旗揚げし、軍隊の慰問などを中心に活動を再開。同.11「ミルク・ブラザース」のメンバーであった実弟の岡村龍雄、有木山太が応召。翌年.7 実弟の岡村龍雄がグアム島にて戦死。この頃は一座の公演も空襲に遭うことが多くなる。'45.5空襲により自宅が焼失。戦争悪化の中でも、浅草大都劇場の「劇団新春座」、浅草花月劇場での伴淳三郎の劇団「軽喜座」に参加し、「軽喜座」公演に参加しているときに終戦を迎えた。この頃、またもカリエスが再発。活弁家の徳川夢声(2-1-7-48)の紹介で愛知一宮の医者の治療を受ける。同.11 出演した轟夕起子主演の東宝映画『歌え!太陽』が公開された。
 '46.4日劇での「銀座千一夜」に車椅子にステッキをついて舞台に復帰。病を押して舞台活動を行っていたが、同.8八千代座に出演中に倒れ、腎臓結核と診断される。同.9神戸の八千代座「爆笑名人大会」出演を最後に浜松の林泉寺に籠もり、灸で腎臓とカリエスを治す大河内式温熱療法を受ける。翌年自宅療養に切り替えた後も、漢方などありとあらゆる復帰をかけた懸命な努力をした。この努力が報われ、'48.1.26より横浜国際劇場での舞台よりステッキをついての出演であったが復帰。これを機に本格的な活動を再開する。
 '48.2シベリアから復員してきた「ミルク・ブラザース」メンバーの有木山太とラジオ演芸「かわッた花咲爺」を放送。映画『それは或る夜の事だった』に出演。同.5 横浜国際劇場に出演した際、小唄勝太郎に花束を渡す役として登場した11歳の少女・美空ひばりと出会う。川田はひばりをそばに置いて可愛がり、多くの影響を与え、またスターへの道を拓いた。同.8 灘サダヲ(康次)、小島タカミツ(宏之)、鹿島ミツヲ(蜜夫)と「川田義雄とダイナ・ブラザース」を結成。新潟の吉田劇場「第1回吉劇まつり」で「ダイナ・ブラザース」の活動を始める。
 精力的に巡業活動をしてる時に、'49.1 浜松での療養中にお世話になった林泉寺に立ち寄り、老師の知り合いに姓名判断をしてもらったところ、「義雄」のままではあと7年の命だと言われ、「晴れて久しく永遠に」という意味の『晴久』という新しい芸名を勧められる。元松竹蒲田のスターであった易者の諸口十九に運が良い名だと言われたため、心機一転、芸名を『川田晴久』と改名した。
 その後も巡業、慰問、映画出演、ラジオ出演など幅広く活動。'49.12.11神田の共立講堂で「美空ひばりリサイタル」に「ダイナ・ブラザース」と出演。年末に過労と高熱で倒れ、翌2月中旬まで休養した。
 '50.3復帰。同.5.16から日米キネマの招きで美空ひばりと共にハワイへ渡り、各地で巡業。映画『東京キッド』のハワイロケでは川田がカメラを回した。ロサンゼルスに渡り、巡業やテレビ出演を果たし、同.7.24帰国。その日の当日に美空ひばりと銀座パレードし帰国挨拶をした。帰国後は美空ひばりとの出演が多くなる。'51.6美空ひばりのマネージャーの福島通人らと新芸術プロダクションを創立し専属となる。以降、自らの自伝的映画と言われる東宝映画『笑う地球に朝が来る』に主演した他、『新東京音頭 びっくり五人男』『とんぼ返り道中』『母を慕いて』『底抜け青春音頭』など映画の出演多数。また設立されたばかりの民放ラジオ局の番組や地方巡業などにも積極的に出演。'55浅草国際劇場にて「舞台生活25周年記念特別公演」を行う。
 '56.10.11京都で映画『振り袖捕物帖 若衆変化』の撮影中に倒れる。重度の腎臓炎と診断され、以後寝たきりで動けなくなる。そのためラジオミュージカル「遠山の金さん」の第1回目の収録は自宅で行った。しかし、同.12より外科病院に入院し、左足の結核性関節炎の手術をする。年末から高輪プリンスホテルで療養をし、'57.1同ホテルで挙行された長女の和恵(前妻との長女)の結婚式に出席した。同.2より自宅療養とし、ラジオの器材を持ち込ませ自宅をスタジオ代わりにして「遠山の金さん」のラジオ収録を続ける執念を燃やし続けた。だが、同.3.28より東京都千代田区飯田橋の厚生年金病院に入院。4月上旬と5月21日と2度、危篤状態に陥るが奇跡的に立ち直る。その間も、病床にてラジオ収録を続ける。同.6.21腎臓結核と尿毒症を併発し逝去。享年50歳。同.6.27新芸術プロダクションの社葬として青山葬儀場で葬儀が執り行われた。

<コンサイス日本人名事典>
<日本芸能人名事典>
<坊屋三郎『これはマジメな喜劇でス』>
<『キートンの浅草ばなし』益田喜頓>
<『東京喜劇 アチャラカの歴史』原健太郎>
<『喜劇人回り舞台』籏一兵>
<坊屋三郎:『広告批評』1992年10月号「ちょいと出ましたあきれたぼういず」>
<『昭和演芸秘史』小島貞二>
<『日本の大衆演劇』『喜劇人哀楽帖』向井爽也 など>


*墓所には二基和型墓が建つ。道側手前に前面「川田晴久墓」、台座に「岡村」とあり、裏面「昭和三十二年九月建之」と刻む。右面は俗名 岡村郁二郎、戒名の芳藝院晴眞郁道居士、昭和三十二年六月二十一日没、行年五十才と刻む。墓石左手に「川田晴久 芸の跡」と題した墓誌碑が建つ。墓所奥側に「岡村家之墓」が建ち、裏面「平成五年六月 岡村冨美子 建之」と刻む。その他の刻みはない。

岡本家 墓所


碑

【川田晴久 芸の跡】
《表面》明治四十年三月十五日 東京本郷に生る 俗名 岡村郁二郎。昭和五年七月 浅草音羽座にて 川田義雄の芸名で初舞台を踏む。同八年 吉本興業へ入社 グラン・テッカール 及 吉本ショウ に出演。同十二五月 「あきれたぼういす」を結成 レビュー界に新生面をひらく。同十四年六月 弟 岡村竜雄たちと 「ミルク・ブラザース」を新結成し 「地球の上に朝が来る」の川田メロディーを流行させる。同十八年 川田義雄劇團を旗揚げし戦時下の大衆演劇界で活躍。同二十四年二月 川田晴久と改名し「ダイナ・ブラザース」を結成主宰す。同二十五年七月 美空ひばりとハワイ又米本土を巡演。同三十年九月 芸能生活二十五年記念公演を浅草國際劇場にてひらく。《裏面》映画 東宝作品 「ハモニカ小僧」ほか七十余篇。ラジオ 連続ドラマ 「遠山の金さん」「國定忠治」「シラノ」その他。レコード 「ダイナコンサート」「地球の上に朝が来る」その他。


*川田晴久は、1935.1(S10)長女の岡村和恵が誕生したことで、二年前より同棲をしていた一般女性と結婚をするも、まもなく離婚している。長女の岡村和恵は、2003(H15)橋本治と共著した回想記『川田晴久と美空ひばり アメリカ公演』を刊行している。
 '39.3川田晴久が人気絶頂期に吉本ショウの踊り子の櫻文子と再婚。二人の間に子がいたのかは不明。櫻文子と墓石建之者の岡村冨美子が同一人物であるのかも不明。
 「ミルク・ブラザース」で共にした川田晴久の実弟の岡村龍雄(本名は岡村隆吉:1913.3-1944)も同墓に眠っているかは不明。岡村龍雄は、1942一人で歌ったレコード「我輩は天下のヤブである」「大東亜戦争双六」を出すなど活躍していたが、戦争に応召され、1944グアムにて戦死した。なお、龍雄は、昭和10年代前半、浅草・東京花月劇場の「吉本ショウ」のレヴュー・ガールだった立木雅子と結婚し一児を儲けている。龍雄死後は一人で子息を育てたとされる。立木雅子は踊り子の同僚である小柳咲子と合体した名前、"小柳雅子"のモデルとされている。これは、当時人気を博した高見順の小説「如何なる星の下に」の登場人物の名前である。なお、立木雅子も「あきれたぼういす」の三人と共に新興キネマ演芸部に引き抜かれた。

墓

*墓石彫刻の某会社の情報によると、「川田晴久墓」という字体が墓所管理者の言により、平成13年6月に削りなおしたことがわかった。上の写真が以前の彫刻の墓石である。

*東京・浅草の浅草寺境内奥山に「喜劇人の碑(いしぶみ)」が建つ。浅草を代表する喜劇人を偲び、1982建立。13名の元祖喜劇人の名前が刻まれ(その後追加されている)、川田晴久を先頭に刻む。多磨霊園に眠る刻まれている人物は他に堺駿二(3-1-29)が刻む。



第82回 美空ひばりの師匠 歌謡漫談家 川田晴久 お墓ツアー


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