土佐国吾川郡八田村(高知県伊野町)出身。川淵漁三の二男として生まれる。1877(M10)高知県師範学校卒業後、二年半、小学校教師を務めた。
東京に出、司法省法律学校に学び、1883.7松山始審裁判所判事補となる。東京、大阪、京都などの裁判所に勤め、長崎控訴院検事を経て、1894.2佐賀地方裁判所検事正、1897.3台湾総督府法院検察官、1898.7.20〜1899.11.8台湾・覆審法院検察官長(心得)、1898.11名古屋地方裁判所検事正に補された。
1901.4東京地方裁判所検事正の時に、教科書疑獄事件が発覚し、この疑獄事件の捜査を指揮し、小学校教科書採択に関する全国的汚職事件を追求した。'03.12函館控訴院検事長、'05.11広島控訴院検事長、次いで仙台控訴院検事長を歴任し、'23(T12)退職。
'25.8 第14代広島市長に就任し、'29.8(S4)任期満了まで務めた。この間、'29.3.20広島市が主催で開会した昭和産業博覧会において昭和産業博覧会長を務めた。晩年は東京に移住した。正3位 勲1等。享年80歳。
*墓石は和型「川淵家之墓」。左右に墓誌があり、右の墓石に「検事 正三位 勲一等 川淵龍起」、没年月日と行年は八十二歳と刻む。妻は瀧子。墓誌には「検事 川淵千蔵」の刻みもある。他は龍起の妻の瀧子、龍一の妻のあい、千蔵の妻の呉葉、卓蔵の妻の恭子が並ぶ。左側の墓誌は新しく、川淵龍一(H5.3.23歿 89才)が刻む。
*川淵龍起の二女の綾子と結婚し婿養子となった川淵洽馬(旧姓は宮崎)は内務省官僚、福島・広島・福岡の各県知事、高知市長などを務めた政治家。
※川淵龍起の名前は、川渕であったり、竜起だったりと表記されている人名辞典等もあったが、ここは墓誌に刻まれている「川淵龍起」で統一する。また、高知県人名事典には没月日が2月2日となっていたが、墓誌には2月1日と刻むので、そちらを優先する。
【教科書疑獄事件(きょうかしょぎごくじけん)】
小学校教科書は、文部省検定を通過した中から、各府県知事の採用によることになっていたので、金港堂等の教科書会社は文部省の高官や各県の知事・視学に年々多くの賄賂を使っていた。
1902(M35)これが発覚して、日本全国で知事・視学・学校長及び文部省官吏100余名が検挙され、教育界空前の不祥事と騒がれ、菊池大麓文相問責にまで発展した。
桂内閣はこの「腐敗」の粛清を口実に、検定制度を止めて国定教科書一本とし、指定書籍商を作って教科書の官僚統制を一層強化するに至った。教科書の国定化は第二次世界大戦で敗戦するまで続くことになった。
発覚の経緯は、1902年11月、東京品川駅近くの田んぼの中に皮カバンが落ちていたのを近所の人が見付け、警察に届け出たことから始まる。
カバンの中にあった名刺より教科書出版会社であった普及社社長の山田禎三郎の物であるとわかった。山田もカバンが盗まれたという被害届を出していた。持ち主に引き渡され終わりではなかった。
カバンの中を確認していた署員が手帳に挟まれていた名刺から持ち主がわかったが、その手帳のメモ書きには知事や視学官、校長などの教育関係者の名前が書き連ねており、その名前の横に数字もメモされていた。
これを見た署員は警視庁に知らせ、警視庁は東京地方裁判所検事局に連絡した。この捜査を指揮したのが、東京地方裁判所検事正であった川淵龍起である。
内定捜査の末、その年の12月17日から強制捜査が始まった。当時の教科書販売の出版業に占めるウェイトは大きく、ケタはずれに大きい贈収賄金額を受け取っていた教育界のトップ層の腐敗に、マスコミもこの話題を連日報道し、新聞で捜査状況を配信したため世間の注目も高まった。
翌1903年3月より裁判が始まる。捜査と裁判の結果はこのようなものだった。召喚・検挙は約200名。予審152名のうち有罪112名、最終的に官吏収賄罪69名などと、小学校令施行規則違反44名が有罪となった。
贈賄側の教科書出版会社には予審に付された者はなかった。ただし、政府はかねて文部省で編纂中であった教科書を出版することを決め(国定教科書)、教科書出版会社5社の被採択権が剥奪され、教科書約2000万冊以上が採択できなくなった。
この教育界の腐敗に最も義憤を感じていたとされる人物は児玉源太郎(8-1-17-1)だったとされる。川淵龍起をこの事件の捜査指揮者に抜擢したのも児玉ではないかと言われている。
児玉が台湾総督時代に川淵を初代台湾・覆審法院検察官長に任じている過去もある。児玉は教科書疑獄事件後の、1903年7月17日より桂内閣の内務大臣と文部大臣を兼任し、一時、文部省を解体し内務省への編入を検討したとのことだ。結果、そこまでには至らず、同年9月22日に文部大臣を免ぜられている。
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