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かとう よしひろ

加藤淑裕

かとう よしひろ

1925(大正14)〜 1988.4.23(昭和63)

昭和期の発生生物学者

埋葬場所: 2区 1種 13側〔藤井家〕

 東京帝国大学理学部卒業。学生時代に政治家の三輪寿壮(23-1-1)の長男の三輪正弘と中学からの友人であったため、正弘の母の總子が主宰していたサロンの一員となり、親睦をはかった。
 1950(S25)成蹊高校教師となるも、学者として生きる夢を捨てきれず、'53アメリカのカリフォルニア大学とワシントン大学に留学。 その後、カーネギー研究所の研究員になって研鑽を積み、「発生生物学」をマスターする。 8年間の米国留学後帰国し、名古屋大学に籍を置き研究を続け、マサチューセッツ大学の教師に招聘され再渡米。 更に米国で7年間の研究生活を送った。帰国後は、わが国における発生生物学の権威として活動。 日本発生生物学学会長、三菱化成生命科学研究所副所長、発生生殖生物学研究所名誉所長を歴任。 日本で生物学関係の国際会議が開かれるときには議長に推されて会議を取り仕切った。associate professor(MIT)を経て、三菱化学顧問。食道癌のため逝去。享年63歳。
 妻は医学者の藤井玄対(百太郎)(同墓)の娘の恭子。恭子は日本女子大学演劇部に所属しており、東京帝国大学の演劇部と共演がきっかけで加藤淑裕の弟を知る。 弟は不幸にも急死し、弔問に訪れたところ淑裕が駅まで送ってくれた。これが機縁となり、二人は交際し、1950(S25)結婚することとなった。 淑裕は25歳、恭子は20歳。淑裕は結婚後も主婦に留まらず恭子自身の専門分野の研究を続けることを勧めたという。 当時は淑裕は成蹊高校の教師になったばかりであり、恭子は早稲田大学に入学したところであった。恭子が大学卒業するのを待ち、'53二人は米国に留学した。

<「伴侶の死」著:加藤恭子 など>


加藤恭子 かとう きょうこ
1929(昭和4)〜ご存命
フランス文学者
 東京出身。父は医学者の藤井玄対(百太郎)。旧姓藤井。 日本女子大学国文科を中退し、1950(S25)早稲田大学文学部仏文科に入りなおす。専攻はフランス中世文学。 '53卒業し、夫の加藤淑裕と共に渡米し、'65ワシントン大学修士課程修了後、フランス政府から奨学金を与えられてフランスのナンシー大学で学ぶ。 フランスからアメリカに戻り、ジョンズ・ホプキンス大学の大学院で研究生活を送り、帰国。早稲田大学大学院博士課程修了。 マサチューセッツ大学オノラリイ・フェロー。帰国後は、主婦として家庭を切り盛りしながら、上智大学で講師をした。現在は上智大学コミュニティ・カレッジ講師。
 アメリカ滞在年数が長く、英語のみならずフランス語も堪能であり、更にドイツ語、 ラテン語も勉強した。 主な著書は『英語を学ぶなら、こんなふうに―考え方と対話の技法』、『こんなふうに英語をやったら?』『私は日本のここが好き―外国人54人が語る』などの分かりやすい解説の英語教育本から、『「星の王子さま」をフランス語で読む』、『アーサー王伝説紀行』、『日本を愛した科学者』(日本エッセイスト・クラブ賞)など。インモース氏との共著に『深い泉の国「日本」』と『ヨーロッパ心の旅』(ロゲンドルフ賞)がある。 訳書も多く、エッセイや小説など幅広く執筆。また、夫の淑裕没後に『伴侶の死』('97)、『「伴侶の死」それから』('99)なども出版している。なお、夫と共に過ごした38年間の結婚生活を、<I have worked really hard >と総括している。

<自著著者略歴など>


墓所 藤井家累代墓所
藤井玄対(百太郎)の像 藤井玄対(百太郎)の像 墓誌

*墓所入口に「藤井家累代墓所」の墓誌碑、正面に岳父で医学者の藤井玄対(百太郎)の等身大の像が建つ。 その右側に和型墓石に藤井玄対・和子の刻みがある墓、左側に並んで灯篭、その手前に墓誌がある。 墓誌に藤井(玄対)百太郎、和子、藤井百太郎(宏俊)、加藤淑裕の四名の名前と没年月日が刻む。 藤井玄対(藤井百太郎)は日佛文化功労章を授章した医学者。


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