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かとう わへい

加藤和平

かとう わへい

1843(天保14)〜 1933.12.29(昭和8)

幕末・明治・大正期の和算家、数学教育者

埋葬場所: 13区 1種 27側

 加賀(金沢)出身。父は加藤和左エ門重春(同墓)。加賀100万石・前田家の和算の御用学者として、藩士の子ども達に和算を教えたり、藩の財政を管理する任にあたった。
 1870.12(M3)維新に伴い旧金沢藩に小学校を設けられる。学科を読書・習字・洋算の三部に分け、各部専門教師が教授をしたが、洋算家は少なかったため、適任者がおらず、和算家であった加藤に声がかかり、翌.3 創立した材木町小学校教員に任命された。和算学者の才能を生かして、金沢で数学教師を務める。
 明治初期の和算から洋算に切り替えにあたり、使用されたイギリスの教科書を、貨幣単位など日本人用に編纂し、洋算の教科書『新撰数学』を著した。
 1878数学教育に情熱を燃やしていたが、安定した教師の職を辞して、北海道の開拓使として移る。北海道にて林顕三らと開進社を組織し、後志、渡島両国の開墾に従事した。当時は未開の地であった北海道の開墾業、ニシン漁などで繁栄した町があり多くの本土出身の若者が志しを持ち北海道に渡った時期である。しかし、加藤らの開墾業は失敗した。
 その後、陸軍の地図作り、函館師範の教師、江差(ニシン業で栄えた町)で巡査を務めた。北海道から名古屋に転じ、東京に移り、三越品川寮に於て従業員の監督に当たった。最晩年こそ、東京で長男と一緒に暮らし逝去。享年90歳。

<郷土数学>
<母が語る20世紀 17. 曾祖父・加藤和平>


墓所

*墓石は和型「加藤家之墓」。右側に墓誌が建つ。戒名は松壽院釋和光信士。妻は田鶴。長男は実業家の加藤英重(同墓)。

*代々の菩提寺は金沢の野田山という所の墓であったようだが、多磨霊園に改葬されたものと思われる。


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