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かとう ひでしげ

加藤英重

かとう ひでしげ

1878.4.30(明治11)〜 1956.6.3(昭31)

明治・大正・昭和期の実業家

埋葬場所: 13区 1種 27側

 金沢出身。父は和算家、数学教育者の加藤和平(同墓)。父が教育者を辞し北海道の開墾に従事したため、少年期を北海道で過ごす。しかし、父の開拓事業は失敗し困窮となる。その時、和算の御用学者として加藤家代々仕えていた加賀100万石・前田家の縁で、前田家からの奨学金で英重は旧制金沢四高に進学することができ、金沢に戻る。
 その後も支援が続き、東京帝国大学法学部に進学するが中退。その折、前田家より米国カリフォルニアでの事業を手伝ってもらいたいと言われ、1899(M32)渡米。カリフォルニア州サクラメントにて貿易業を行う。
 アメリカでの貿易業は軌道に乗っていたが、米国内で移民者に対する風当たりが強くなり、'20(T9)日系移民に嫌悪な空気であった米国を察し帰国。帰国後も横浜で貿易の仕事をしていたが、'24.7.1排日移民法(ジョンソン=リード法・アジア人排除法)が米国で施行され、嫌気がさした英重は、貿易の仕事を遠縁の者に譲り株屋に転職した。
 その後、仲の良い友人と日比谷で出版社を興し出版業に乗り出すも、友人が政治家を志す理由で出版業を辞したことに伴い、自身も出版社を辞め、三越に入社。三越では仕入部長などを歴任。この頃、父の和平を東京の自宅に呼び一緒に暮らし、和平も三越品川寮の従業員の監督者となっている。
 三越退職後は、郷里の金沢に近い七尾市にて、セメント会社を興すべく株式を募集した。だが太平洋戦争が勃発するなど個人でのセメント会社創設は困難をきたし断念。晩年は伊豆の別荘の臥風荘(がふうそう)で過ごした。肺ガンにて逝去。享年78歳。遺言は「戒名不要、読経、通夜、精進料理、初七日の仏事不要、家族のみにて葬送のこと」。

<母が語る20世紀 17. 曾祖父・加藤和平>


墓所

*墓石は和型「加藤家之墓」。右側に墓誌が建つ。遺言通り戒名はない。妻はテツ。

*テツ(1892.10.11-1953.3.9)は旧金沢藩士で、海軍大佐の娘。遠い親戚筋であり両家縁談で結ばれたという。当時青山学院在学中であったが退学し、米国にいる英重に嫁ぐ。


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