東京出身。宗教学者の加藤玄智(同墓)の二男として生まれる。1929(S4)東京帝国大学農学部林学科卒業。大学院に進み、'31 内務省衛生局に入る。'38 厚生省技師となり、後に内務省と兼務した。
'41 母校の東京帝国大学講師。'44 助教授。'50 教授。'54 農学博士。東京農工大学、東京農業大学、名古屋大学、新潟大学などの講師も兼務した。'66 停年退官で名誉教授。
森林利用学の分野で活躍、索道の技術研究、自然保養林制度制定にかかわり、また観光学や風景学、さらに橋梁の美学についても研究を重ねた。放物線索理論による架空索理論の研究や伐木運材技術についての研究で業績をあげ、'57 日本農学賞受賞。'62 ベルリン大学客員教授として、日本の造園について講義をした。また国立公園候補地調査に関わる中で、都道府県の観光診断の草分けとなる。
主な作品として、スターリング・フォレストガーデン内日本庭園(1960年、ニューヨーク州)、北海道・野幌森林公園(塩田敏志らと)、比叡山の綜合観光開発(前野淳一郎らと・1958)日産厚生園 (1943)、上高地・河童橋(2代目、景観設計)などがある。著書に『橋梁美学』『林業土木学』『伐木運材経営法』『森林土木』など多数刊行。
東京帝国大学在学中はスキー山岳部に入り部長を務め、以降も山登りを行う。'63 カラコルム遠征隊長としてバルトロ・カンリ㈽(7,312メートル)に初登頂するなど登山家としても活躍。しかし、登山により全身リューマチにかかり、国立伊東温泉病院に入院し治療を受けた。享年63歳。
*墓石は和型「加藤家之墓」、裏面「昭和九年十二月建之」。右面が墓誌となっている。兄は脊髄カリエスで31歳の若さで病死した加藤誠智(M36.2-S9.6.10:法界院誠心智明居士)から刻みが始まる。母はセツ(M10.5-S14.9.26:圓妙院秀芳清節大姉・旧姓は門脇)。父の加藤玄智の戒名は圓寂無所得庵藤玄大徳。「文学博士」とも刻む。家督を相続した二男の加藤誠平と妻の美子(H2.11.7・享年70才)は俗名のみ。
*加藤誠平の前妻との子は清昭と直子がいる。加藤清昭は農学博士、国連 FAO 農業局バイオテクノロジー担当官、常盤大学国際学部教授、市民の大豆食品研究会世話人などを務めた。後妻との子は薫と滋がいる。加藤薫は神奈川大学経営学部教授で中南米・カリブ圏・ラティーノ美術史研究者。静岡県御殿場市に在住し、戸籍、少量の遺品などを管理しており、玄智の著作権相続者でもある。