(2代) 狩野洞春 かのう とうしゅん
?〜1724.12.12(享保8)
江戸時代前中期の画家
名は義信、福信、政信、兼信。別号に守静斎。狩野洞雲(初代)の養子となり、1694(元禄7)洞雲が没したため、駿河台狩野家を継ぐ。
御所の障壁画や朝鮮贈呈屏風などの制作に参加。作品に『日光山縁起』。戒名は浄慈院洞春玄智居士。
(3代) 狩野元仙 かのう げんせん
1685(貞享2)〜1751.5.6(寛延4)
江戸中期の画家
名は方信。狩野洞春(2代)の長男。1724(享保9)父の跡をうけて駿河台狩野家を継ぐ。
父と同じように御所の障壁画や朝鮮贈呈屏風などの制作に参加した。門人に石里洞秀(同墓)がいる。
享年67歳。戒名は示教院丹岳元仙居士。
(4代) 狩野洞春 かのう とうしゅん
1747(延享4)〜1797.3.8(寛政9)
江戸時代中後期の画家
名は美信。義信とも。通称は三四郎。別号に浩然斎。狩野元仙(3代)の長男。
幼くして父母を亡くし、父の門人の石里洞秀(同墓)の教育を受け、探幽の古法を守り、雪舟の筆意を学び努めて画風(駿河台風)をなし、一大名手とされる。
狩野美信(よしのぶ)という名でも優れた画を残している。1755(宝暦5)駿河台狩野家を継ぐ。1785(天明5)式部卿法眼に叙せられた。
朝鮮贈呈屏風などの制作を手がける。戒名は圓通院前法眼洞春美信深如居士。
*養子の説もある。また、没年が寛政7.2.28の説もある。
(5代) 狩野洞白 かのう とうはく
1772(安永1)〜1821(文政4)
江戸時代後期の画家
名は愛信(ちかのぶ)。狩野洞春(4代)の子。 1797(寛政9)駿河台狩野家を継ぐ。
朝鮮使節に贈る屏風を描くなどをし、1813(文化10)大蔵卿法眼に上げられる。門下に尾形洞水 がいる。
(6代) 狩野洞益 かのう とうえき
?〜1841.6.5(天保12)
江戸時代後期の画家
名は春信。板谷広長の次男。狩野洞白(5代)の養子となり、駿河台狩野家を継ぐ。
(7代) 狩野洞白 かのう とうはく
?〜?
江戸時代後期の画家
名は陳信。狩野洞益(6代)の子。1841(天保12)駿河台狩野家を継ぐ。
平面芸術に優れ、同じ駿河台狩野派の前村洞和と共に多くの弟子、門人をもうけ画法を伝授した。弟子に河鍋暁斎などがいる。
(8代) 狩野洞春 かのう とうしゅん
?〜?
江戸時代後期の画家
名は陽信。狩野洞白(7代)の子。
(9代) 狩野洞春 かのう とうしゅん
?〜?
江戸時代後期の画家
狩野洞春(8代)の子。