1927(S2)京都帝国大学卒業後、東京帝国大学大学院入学。翌年立正大学講師、'33立正大学教授となった。
大衆文化や現代文化に関しての社会学の教鞭をとった。光子と結婚し'37(S12)11.8美智子誕生。
戦後'47中央大学教授。その後、'50神戸大学教授、'52東京外国語大学教授を経て、'55再び中央大学教授となった。'71創価大学教授。
この間、'60(S35)6.15安保改訂阻止第二波実力行動に、急進的学生の組織の活動家として参加した美智子が、警官隊との衝突の中で圧死した。
当初、社会学者としての立場から60年安保闘争を「学生の行動は跳ね上がりの妄動」であると述べていた。
しかし、娘の死に直面してから以後は、娘の行動を理解しようとする父の万感胸に迫る思いに変化していった。
美智子は安保闘争の象徴とされ、講義デモに俊雄もしばしば参加した。
'60父である俊雄は『最後の微笑』を、母である光子は美智子遺稿集として『人しれず微笑まん』を出版しベストセラーになった。'69光子が美智子の手紙『友へ』を刊行した。
<社会学者人名録> <人しれず微笑まん―樺美智子遺稿集 三一新書 257>
*墓誌には美智子の「最後に」と題された詩が刻まれている。
樺 美智子 墓誌
「最後に」
誰かが私を笑っている
向うでも こっちでも
私をあざ笑っている
でもかまわないさ
私は自分の道を行く
笑っている連中もやはり
各々の道を行くだろう
よく云うじゃないか
「最後に笑うものが
最もよく笑うものだ」と
でも私は
いつまでも笑わないだろう
いつまでも笑えないだろう
それでいいのだ
ただ許されるものなら
最後に
人知れずほほえみたいものだ
1956年 美智子作
第25回 安保闘争に倒れたヒロイン 樺美智子 お墓ツアー ※再UP
|