兵庫県神戸市出身。父は社会学者の樺俊雄(同墓)、母は後に遺稿集を編集し出版した樺光子。
兵庫県立神戸高等学校を卒業後、1957(S32)東京大学分科二類に入学。共産党からブント(共産主義者同盟)へ入り、安保闘争に参加。
文学部副委員長。不正を許せない強い正義感から連日、反安保デモの渦の中にいた。
東京大学文学部日本史学研究室4年生であった1960(S35)6月15日、580万人を動員して行なわれた安保改訂阻止第二波実力行動に、急進的学生の組織の活動家として参加。
全学連はブントを先頭にして南通用門から国会構内に学生約4千人が突入。警官隊との衝突が繰返される中で死亡した。享年22歳。胸部圧迫の窒息死とされた。
警察側は転倒が原因の圧死と主張し、学生側は機動隊の暴行による死亡と主張した。
結果的に学生側の死亡者を出したことで、警察はマスコミから批判されることとなり、その死は安保闘争の象徴となった。
なお、翌日の6月16日には閣議で訪日予定であったアイゼンハワー大統領に延期要請を決定。6月18日には60年安保最大の33万人が国会を取り囲んだ。
6月23日に批准書交換が行われ、日米新安保条約発効とともに岸信介首相の退陣が表明した。
葬儀は6月24日に日比谷公会堂で〈国民葬〉と銘打って行われ、毛沢東からは「全世界に名を知られる日本民族の英雄となった」の言葉が寄せられた。
'60母の光子の手による遺稿集『人しれず微笑まん』はベストセラーになり、'69『友へ―樺美智子の手紙』も刊行された。
この事故を教訓とした警察は、人質事件や学生運動の際に、常に監察医を現場に待機させるようになった。