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かなもり とらお

金森虎男

かなもり とらお

1890.9.26(明治23)〜 1957.11.27(昭和32)

大正・昭和期の歯科医学者

埋葬場所: 22区 1種 128側

 福井県大野郡(大野市)出身。伊藤作四郎の4男として生まれる。1909(M42)医師の金森辰次郎(同墓)の養子となる。
 四高を経て、1916(T5)東京帝国大学医科大学卒業。養父の辰次郎の大学同窓である日本で最初の歯科教室の創始した口腔外科医・歯科医の石原久の影響で歯科に興味を抱き、石原の教室に入局。しかし、歯科に対する石原の姿勢を疑問視した局員の退任騒動を医局長の木村一郎から聞いて悩み、翌月辞表を提出。第四高等学校の先輩でもある東京医術開業試験付属病院(永楽病院)の島峰徹に師事した。
 '20歯科医師試験委員となる。'22島峰の文部省歯科病院院長となったことで同病院に参画。'25文部省在外研究員としてイギリス・ドイツ・アメリカに留学し、'27(S2)帰国、復職。翌年より千葉医科大学講師も務める。島峰を中心に官立歯科医学校開設の運動の中で、'28.10.12勅令により文部省歯科病院内に東京高等歯科医学校(東京医科歯科大学)が開設され、島峰が初代校長に就任したと同時に、教授となり口腔外科と共に歯の組織学を担当した。同.5 医学博士。人材不足より、歯の解剖学・補綴学教授の川上政雄(11-1-3)と複数の教室を担当した。
 '34.4.28東京帝国大学医学部第3代歯科学教室主任に就任。歯科学教室の充実につとめると同時に、医学士の教室員を国内留学として東京高等歯科医学校に派遣するなど両校の融和につとめた。17年間在任。この間、'39歯科医師試験委員、'42厚生省専門委員を歴任した。
 '49東京大学医学部附属医院長。'51.3東京大学を退任。同.6.1東京大学医学部(病院長)停年退官。札幌医科大学学長の大野精七の懇望により、札幌医科大学教授に着任。に向け、多方面にわたり奔走する一方で口腔外科学教室の創設整備とともに歯科診療所の拡充に努め、'53外来ユニット27台、病床16、診療所スタッフは15名に達した。在職中に逝去。享年67歳。金森の骨格標本と晩年に患っていた胃癌の摘出標本は現在も札幌医科大学の標本室 に本人の遺志で保存されている。

<20世紀日本人名事典など>


墓所

*墓石は和型「金森家之墓」。裏面「昭和三十三年十一月廿七日 金森きよ 建之」と刻む(金森虎男が亡くなったちょうど一年後)。右側に墓誌がある。戒名は受福院釋徹石居士。俗名の横に号も刻む。墓所左側に猫の置物がある。


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