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かがわ ふゆひこ

香川冬夫

かがわ ふゆひこ

1892.2.4(明治25)〜 1974.8.25(昭和49)

大正・昭和期の農学者

埋葬場所: 15区 1種 8側

 広島県広島市出身。陸軍中将の香川富太郎(同墓)の次男で嫡男。
 1916(T5)東京帝国大学農科大学卒業。宇都宮高等農林学校教授から同校長となる。'28(S3)「小麦属及類縁植物ノ系統ニ関スル研究」で農学博士。'43京都帝国大学教授となり、同大農学部付属農場長、農学部長を歴任した。コムギなどの種・属間雑種に関する細胞遺伝学的研究で業績を残し、大学の農学研究体制の充実に尽力した。
 '58(S33)停年退官し、名誉教授。同年、愛媛大学学長に招かれ就任した。この年より愛媛大学は工学専攻科および農学専攻科が設置された。工学部の松山統合構想を掲げて県との協調推進を図り、県政の重要課題に取り組み、三年後に実現させた。
 なお、在任中は学生運動が活発で、大学の自由自治をめぐっての論争があり世間から注目を浴びた。これに対して、愛媛大学の自由は世の中で誤解されているとし、大学の真の意味は大学における「研究の自由」のことで、この意味の自由を守るために、自治があるのだと主張。大学の自治会の名で目的達成のために手段を選ばぬ激しい政治行動を批判し、「守るべきは研究の自由」と説いた。また日本の狭い国土に五百余、国立四年制大学でも72もあることを指摘。大学制度の根本的な在り方、今後は大学間の競争により淘汰が起こり存続が許されない大学も出ることを予見。愛媛大学が地域の大学として、ゆるぎない存在となるためにも、学生と力を合わせ、競争を超えて充実、発展するよう全力を尽くしたいと語っている。
 退任後は愛媛大学の名誉教授にもなった。著書に『種・属間交雑による作物育種学』がある。享年82歳。

<20世紀日本人名事典>
<講談社日本人名大辞典>
<朝日新聞「大学の学長さんから大学新入生へ贈ることば」S35.4.17記事>


*墓石は和型「香川家之墓」。裏面「昭和十三年八月建之」。墓誌があり、墓誌には「先祖累代之霊 昭和十三年九月 廣島市 常林寺 より 改葬」と刻む。香川富太郎には「陸軍中将 正四位 勲二等 功三級」の刻み有り。享年は八十五才と刻む。妻は いく。長男の行一、長女のてる は早死。墓誌の最後は「冬夫 妻 ひで」(S26.5.25、享年50歳)の刻みがある。香川冬夫の刻みはないが同墓に眠られていると思われる。


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