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ふたき ひでお

二木秀雄

ふたき ひでお

1908(明治41)〜 1992.9.18(平成4)

昭和期の細菌学者、731部隊

埋葬場所: 4区 1種 41側

≪詳しい略歴は調査中。ご存知の方はご一報ください≫

 「731部隊」とは大日本帝国陸軍の関東軍防疫給水部本部の事。関東軍管轄区域内の防疫・給水業務を行うことを目的に設置された。細菌・化学戦研究の為に人体実験・生体解剖などを行い細菌兵器を開発したことで知られる。初代部隊長の石井四郎(1892-1959・陸軍軍医中将)に因んで石井部隊とも呼ばれた。1936(S11)東郷部隊が天皇の認可により、正式な部隊(皇軍)となる。東郷部隊を母体として関東軍防疫給水部を編成。'39.5.11ノモンハン事変勃発により、野戦防疫給水部長として石井らは出動。石井部隊の防疫成果が認められ、関東軍より感状が授与される。'41.4部隊名を秘匿名、「満州第731部隊」と改める。この頃より、本格的に人体実験・生体解剖が行われるようになる。
 二木は金沢医科大学で細菌学者から転じ、731部隊6等技師として第一部の細菌研究の中にある第十一課(結核) 二木班(結核研究)の班長として携わった。終戦直後、石井の右腕であった内藤良一がマレー・サンダース軍医中佐と交渉し、米軍が手に入れたかった人体実験の資料と交換条件として731部隊関係者は戦犯免責となった。これにより、東京裁判でも起訴されずに済む。'45.8 撤退時の731部隊の博士号をもつ医官は53名いた。731部隊の最大人員数は約3900人(支部含め)といわれ、陸軍防疫給水部隊の総数は約5千人といわれる。これが全て無罪放免となった。
 免責となった二木は金沢医科大学の細菌学者に戻る。また、政界ジープ社社長として、右翼系政界誌「政界ジープ」発行者となる。
 '50.11 二木は免責された731部隊の仲間である内藤良一(陸軍軍医学校防疫研究室責任者として731部隊に深く関与)と北野政次(731部隊第2代部隊長)と「日本ブラッド・バンク」の発起人となり、政界、財界との共同、神戸銀行の出資で創立して取締役になる。なお創立時の取締役会長は国務大臣の岡野清豪、代表取締役専務は内藤良一、取締役に北野政次と二木、常務取締役は小山栄二というメンバーであった。この日本ブラッドバンク社は日本初の血液銀行として、朝鮮戦争時には米軍が血液を大量購入し事業が繁栄した。後にミドリ十字('64名称変更)となりエイズウイルス入りの血液製剤を輸入し薬害エイズ事件を引き起こしていくことになる。
 '55.8.13二木は精魂会代表として多磨霊園に「懇心平等万霊供養塔」を建之した。その後、日本イスラム教団設立者としても活動した。享年84歳。


墓所

*墓所には6基。正面に五輪塔、五輪塔から見て左側の和型墓石は二木宗三郎/うた の墓石、その左側は地蔵を象った墓石。五輪塔の右側の和型墓石は二木勇太郎/キク の墓石、その右側には二つの二木あい子、二木秀雄の墓標が建つ。二木秀雄の墓標の正面は「故 俗名 二木秀雄之墓」。右面は「平成四年九月十八日歿 八十四才」。裏面は「平成二十四年五月建之」と刻む。秀雄の隣の二木あい子の墓標も同じ建之日である。


【731部隊と石井四郎】
 石井四郎(1892-1959 最終階級は陸軍軍医中将)は中国での戦線拡大に伴う物資不足を解決するため、当時国際的に禁止されていた細菌兵器に目をつけ、鉄資源に乏しい日本において細菌兵器は安上がりで最も有効な兵器と提唱し陸軍のトップを動かす。1936(S11)軍令により関東軍防疫給水部(大日本帝国陸軍731部隊)が設立され、隊長としてハルビンにて細菌兵器を開発していくことになる。飛行場、神社、プール等もある巨大な施設で冷暖房も完備された近代的な施設を持ち、監獄も完備してあり、少なくとも3000人近い人を実験により殺したとされる。
 施設の中心のロ号棟(ろごうとう)でペスト菌や炭疽菌、チフス、凍傷、毒ガス等の人体実験を行った。'40当時、年間予算1000万円(現在の90億円)が会計監査なしで支給されていた。ロ号棟の中庭にある特設の監獄2棟に日本軍に抵抗したとして捕らえた中国人、朝鮮人、ロシア人、モンゴル人等を人体実験のために収容し、その囚人をマルタと呼んだ。憲兵・警察等が裁判を行わずに容疑者を731部隊に移送できる特移扱(特別移送扱い)という制度まであり、憲兵は特移を増やせば出世していた。
 マルタに対しワクチンが効かない細菌製造のため、より毒性の強い細菌を注射し、感染して発熱すると大喜びした。瀕死の状態の時に解剖して内臓から菌を取り出した。'40〜'42にかけて井本熊男の作戦の元、ペスト菌を中国にばらまくことになる。'45.8大本営作戦参謀朝枝繁春より撤退を告げられ、石井の命令により、施設を証拠隠滅のため根こそぎ爆破、収容していた人体実験用の中国人ら約400人をガスで殺した後、自らの家族と幹部らともに特別列車で引き揚げた。
 戦後は石井は戦犯追及を恐れ、病死を装い偽の葬式まで千葉で行い行方をくらまし、米兵相手の売春宿を経営してひっそりと暮らしていた。石井の右腕であった内藤良一がマレー・サンダース軍医中佐と交渉、人体実験の資料と交換条件として731部隊関係者は戦犯免責となった。石井の墓は河田町の月桂寺。

<石井四郎731部隊長と731部隊>


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