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ふるさわ よしこ

古澤淑子

ふるさわ よしこ

1916.6.1(大正5)〜 2001.2.16(平成13)

昭和期の声楽家

埋葬場所: 3区 1種 15側

 満州大連出身。父は古澤丈作・満江(共に同墓)の次女。本名は倉知淑子。
 小学校時代に遠藤郁子に唱歌を学び、その後、萩野綾子に声楽を師事。1937(S12)渡仏。パリ音楽院声楽科に日本人として初めて合格。フランス近代歌曲と詩の朗読を学び卒業。'42フランスで出会った作曲家の倉知緑郎と結婚。'44太平洋戦争真っ只中において、敵国人として一斉退去させられベルリンに移る。スイスの難民キャンプに入る。
 戦後、ジュネーブで音楽活動を再開。本拠をパリに移し、スイス、フランスでリサイタルを開き、多くのラジオ番組に出演。'52倉知緑郎と離別し15年ぶりに単身帰国。帰国後は桐朋学園大学教授、東京芸術大学講師、ヨーロッパ音楽学校教授を歴任。'55フランス歌曲研究会を主宰して後進の育成・指導にあたった。
 '58オペラ「ペレアスとメリザンド」を日本初演するなど、17世紀から現代に及ぶフランス歌曲の紹介者として知られ、この分野における日本で最初の専門家の定評があり、フランス政府からフランス学術文化章を授与された。
 '72倉知緑郎と再開し再婚。晩年はフランスのオートサヴォア地方のエヴィールという地で古い農家を改造した家に二人で暮らした。2001.2逝去。享年84歳。同.11倉知緑郎も後を追うように逝去。伝記に星谷とよみ「夢のあとで:フランス歌曲の珠玉 古沢淑子伝」(1993)がある。

<20世紀日本人名事典など>


*墓石台座「古澤家」。左側に「昭和五十年十一月 古澤収三 建之」と左横面に刻む墓誌が建つ。倉知淑子と刻む。古澤丈作と満江の間には3姉妹が誕生。姉・長女の貞子が収三を婿に迎え古澤家を継承。古澤収三は日本無機化学工業社長を務めた。妹・三女は順子は銀行家(富士銀行取締役)の宮古忠啓に嫁いだ。全員多磨霊園の墓誌に名が刻み同墓に眠る。なお収三と貞子の長男で甥の古澤裕治はクラリネット奏者。

*夫である倉知緑郎も淑子が亡くなった半年後に没したが、この古澤家墓誌に刻みはない。


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