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ふるさわ じょうさく

古澤丈作

ふるさわ じょうさく

1881(明治14)〜 1955.7.19(昭和30)

明治・大正・昭和期の実業家、ロータリアン

埋葬場所: 3区 1種 15側

 栃木県上都賀郡西方村(栃木市)出身。例弊使街道金崎宿で代々陣屋を務めた古澤家の、古澤貞治郎・せい(ともに同墓)の長男として生まれる。
 県立宇都宮中学を経て、1905(M38)東京高等商業卒業。合名会社大倉会社(大倉組)に入社。'08大倉組大連支店創設に伴い大連出張所主任として赴任。'10ロンドン駐在員を経て、'12(T2)帰朝。翌年より海軍造兵総監の澤鑑乃丞の3女の満江(同墓)と結婚。'14大連に赴任し、日清豆糟(まめかず)製造株式会社取締役大連支店長としてなる。'15大連に市制が施行された時、官選市議として3期務めた。
 '18商号を日清製油株式会社に改め、松下商店を合併した。翌年には関連会社として、満州ペイント・満州石鹸・朝鮮肥料が発足し、それぞれ古澤が社長を兼務した。'20.6取締役会で専務取締役に就任した。'22市議会議員を退任し、欧米巡遊。その成果として、講演記録『欧米市場に於ける我満州特産』がある。'25松下社長が急逝し、翌年、大倉組副頭取の門野重九郎が社長を兼任するまで専務であった古澤が社長を代行した。
 '27(S2)昭和金融恐慌が襲い、日清製油は創立以来の大赤字となる。三井信託会社より120万円を借入、大倉組から借入金80万円を肩代わりして差引き40万円の新規借入れをもって再出発。専務を辞し、取締役に降格。経費削減で再建を目指す。
 '28満州鉄道副総裁の松岡洋右を初代会長に招き大連ロータリークラブ創立し初代副会長となる。'29ロータリーの神髄を学び「大連宣言」として紹介。他に大連取引所専務や銭鈔信託銀行専務など大連各種団体の役員を引き受けた。'30ベルリンでの世界動力会議では満州代表として出席。'34大連駐在ベルギー名誉副領事となった。この頃、社業も回復したため、'35日本国内に活動拠点を移し、東洋モスリン専務やその系統の埼玉繊維株式会社社長を兼任した。翌年、東京ロータリークラブに入会。
 '45.11終戦直後の株主総会で日清製油取締役を退任。'53相談役として再び日清製油に復帰。この間、'52東京ロータリークラブ会長に就任。外国人留学生のために奨学金制度設立を提唱し、日本で初めてロータリークラブを創立した米山梅吉を記念した「米山基金」の構想を発表し委員長となる。財団法人ロータリー米山記念奨学会を設立(2020年現在、累計2万人、出身国127の国と地域の外国人留学生を支援)。
 翌年秋、肺がんのため聖路加病院に入院手術により回復に向かい退院。'55容体が悪化し、聖路加病院にて逝去。享年74歳。2019.11.9(R1) 郷里のJR栃木駅前の北口公園に「古澤丈作顕彰碑」が建立された。

<栃木の偉人 古澤丈作>
<「略伝古澤丈作」金子秀隆>
<「古澤丈作略伝」石崎常蔵>


*墓石台座「古澤家」。左側に「昭和五十年十一月 古澤収三 建之」と左横面に刻む墓誌が建つ。戒名は泰雲院丈山吉祥居士。妻は満江。

*古澤丈作と満江の間には3女を儲ける。長女の貞子(同墓)が収三を婿に迎え継承。古澤収三(同墓)は日本無機化学工業社長を務めた。次女の古澤淑子(同墓)はソプラノ声楽家(墓誌には倉知淑子)、作曲家の倉知緑郎に嫁ぐ。三女は宮古順子(同墓)は銀行家(富士銀行取締役)の宮古忠啓に嫁いだ。なお、収三と貞子の長男で孫の古澤裕治はクラリネット奏者。


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