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ふくおか たけお

福岡武男

ふくおか たけお

1906(明治39)〜 1954.3.4(昭和29)

大正・昭和期の性教育運動家、医学者

埋葬場所: 2区 1種 13側

 東京向島(墨田区)出身。軍医・医学博士の福岡佐次郎(同墓)の子として生まれる。生まれ育った向島は「色街」でも有名で、川向いには遊郭・新吉原や玉ノ井は私娼街で淫売が当たり前のようにあり、貧困層を中心に産児制限、性病、売春の問題があった。このような地で育ったことや、医学者を目指していたこともあり、慶応義塾大学医学部在籍時より性に関する研究に関心を持つ。
 慶応義塾大学医学部卒業後、赤坂の前田外科病院で研修し、同病院初代院長で復形外科(形成外科)の父と称された前田友助のもとで学んだ。前田友助は武男の父の佐次郎の支援を受けた長い付き合いであった。独立し向島に福岡整形外科医院を開業した。
 戦後すぐに性病蔓延を理由にGHQにより公娼制度は廃止されたが、いわゆる赤線に集娼されて事実上の公娼があった。医師として売春婦の治療に触れることもあり、また婦人運動として性教育や、産児制限論、廃娼運動が叫ばれ始めた時代も重なり、開業整形外科医でありながら、地元青年会に請われて性教育運動家としての活動が始まった。
 '46 東京向島に文化協会を設立し、中央大学教授で文化運動として性の問題を扱う保険研究室を開始していた五十嵐喬を会長に、科学的根拠を持つ「国民の純潔教育・浄化運動」をはじめる。同年、墨田地区女子青年会で講演を行い、以後、保険教室と女子青年会で地元青年会にて六カ月の講習を開始した。またNHK放送に出席し青年の座談会「性と青年」に出演。反響が大きく、その年の8月末には「性科学研究所」を設立し所長に就任。経験的なデータを集め性科学を実証的・科学的に研究を始め、実際に町で調査を実施し性に関する情報を集めた。同.11.13 再びNHK放送に出演し「青年運動としての性教育」をテーマとして語る。
 '47 全国性科学運動青年大会を主催し、中央大学講堂にて実施、二千人の聴衆が集まった。同年7月末に「日本性教育協会」設立に向けて生理学者の永井潜(ひそむ)を会長として動き、同.11.11発足させ普及局長に就任。永井潜の生命・性などの人間の根元に関する探究からは影響を与えられ、「性は生、性は聖なり」に感銘。
 '48,12 墨田地区で各団体が中心に「性科学普及協議会」を設立。'49 講演620回と雑誌に一年間連載したものをまとめた著書『性の新しい認識と倫理‐性生活読本‐』を刊行。'51「人間探求」19号にて高橋鐵・竹山恒寿・山本杉・安倍静枝らと「若い人たちの性愛トラブル」を対談や、翌年「夫婦生活」1号からは質問者からの性に関する悩みに回答者として相談にのった。'54.2.13 「日本性科学会」の発起に関わり幹部となった。しかし、翌月、クモ膜下出血のため急逝。享年48歳。没後同年、著書『キンゼイ報告と日本女性の性行動』は刊行された。

<「解題 福岡武男氏が生きた時代について」白井千晶(生殖の者科学)>


墓所

*墓石は和型「福岡家之墓」。左側に墓誌があり、福岡佐次郎の戒名は至誠院釋深信士。福岡武男の戒名は光文院武山良温居士、行年は49才と刻む。福岡むめ、離れて福岡久満子も眠る。

*性教育に対するその志は、没後、妻の福岡光子(てるこ:1922-)が受け継いだ。
 光子は墨田区出身。向島で開業した実母は産婆・大塚スエノの二代目助産師であり、幼少の頃より、妊娠・出産・育児を見てきた。高等女学校卒業後、助産婦資格を取得。土地柄、性教育に関心を持ち、女子青年会団長を務め、武男に性教育の講演を依頼していたご縁で結婚。結婚して10年近くでようやく授かった一人息子の一樹が誕生。しかし、一樹が1歳6か月の時に武男は急逝した。武男が私財をなげうって院内に性科学研究所を設立したため借金だけが残るも、思い切って更に借金をして、1954福岡助産院を開業。身内や職員に支えられながら、出産の介助と育児の両立をこなした。
 開業当初より精神性無痛分娩とオープンシステムを取り入れる。1966 欧米、中近東方面を視察、各国の出産事情にふれる。リーブ法、ラマーズ法などを加えて分娩指導を始める。1980フランスのDr.ミッシェル・オダンに師事、水中出産を研修する。のちに2度にわたり英国でDr.オダンの指導を受け、水中出産を手がけ始める。1985英国の理学療法的自然出産を学び、ニューヨークではアメリカ式ラマーズ法の産前教育を学ぶ。1990丹田呼吸、漢方についても研鑚を積み、1992上海医科大学へ短期留学、西安、北京の産科施設も見学。東洋医学を積極的に取り入れている。
 約50年以上、80歳を超えても多くの出産に立ち会うこと1万5千人以上。同時に妊産婦に性教育を教えた。「性教育は生教育」という武男の言葉に支えられたと振り返っている。著書に『生まれてよかった』がある。
 なお、一人息子の福岡一樹は獨協医科大学を卒業し、産婦人科医となり、慶應義塾大学病院、済生会宇都宮病院、国立栃木病院、都立台東病院、都立築地病院、葛飾区高砂保健センター、国民保険連合多摩病院、聖母会聖母病院などで医師を歴任し、東向島こどもと女性のクリニック院長を務めている。

<著者略歴>
<武男の著書の復刻によせて、福岡光子>
<女性のクリニック院長略歴>


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