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Madeleine Lequeux Foujita

マドレーヌ・ルクー・藤田

Madeleine Lequeux Foujita

1906.8.23(明治39)〜 1936.6.29(昭和11)

大正・昭和期の歌手、絵画モデル、藤田嗣治4番目の妻

埋葬場所: 3区 1種 15側

 フランス国マルヌ県ドルマン出身。本名はマドレーヌ・ユジェニー・ルイーズ・ルクー・フジタ。エコール・ド・パリの時代にモンマルトルで活躍した日本人画家の藤田嗣治の四番目の妻。

 ≪マドレーヌの藤田と出会うまでの経歴が不明であるため、藤田がマドレーヌまでに出会うまでの過程を記す≫ 

 1913(T2)藤田嗣治がパリに留学する前に、女学校の美術教師であった鴇田登美子(とみ)と出会い、'12最初の結婚をした。新宿百人町にアトリエを構えたが、フランス行きを決意し妻を残してパリへ渡航したため、最初の結婚は1年余りで破綻。第一次世界大戦も終局に向かいだした1917、カフェで出会ったフランス人モデルのフェルナンド・バレヱと出会い13日で2度目の結婚をした。フェルナンドの人脈の支えもあり、藤田の絵が認められ瞬く間にパリの寵児となる。夫婦関係は自由でお互に恋人がいることを双方合意の関係性であったが、フェルナンドが画家の小柳正との関係を知った藤田は憤慨し、'28離婚。離婚後、フェルナンドは小柳と同棲するが後に別れ、それを知った藤田はフェルナンドが亡くなるまで経済支援をしたとされる。なお藤田は、'29モデルとして作品に多く描いていたユキ(本名はLucie Badoud:リュシー・バドゥ、後のYouki Desnos:ユキ・デスノス)と三度目の結婚をした。しかしユキは酒癖が悪く毎晩酒におぼれ、詩人ロベール・デスノスと恋仲にもなり、藤田はその仲を公認していたが、'31離婚。ユキはデスノスと再婚した。
 藤田が画家として名声を挙げながらも、適した伴侶に恵まれずにいた1930頃に出会ったのが、カジノ・ド・パリの踊り子として活躍していた赤毛のダンサーことマドレーヌ・ルクーであった。'31秋に藤田は絵画作品のほとんどをユキに譲渡して「煙草を買いに言ってくる」と言い置いて家を出た。マドレーヌとともにアメリカから中南米各国への旅に出発。ヨーロッパ文化、歴史的に地続きであった南北アメリカでの藤田の名声は高く。各地で個展を開き、また多くの作品も手掛けた。同伴したマドレーヌをモデルとした作品も多数描き、『横たわる裸婦(マドレーヌ)』(1932)や『メキシコに於けるマドレーヌ』(1934年、京都国立近代美術館)などの傑作もある。南アメリカで開かれた個展は大きな称賛で迎えられ、アルゼンチン・ブエノスアイレスでは6万人が個展に訪れ、1万人がサインを求めたという。インカやマヤ遺跡を訪ね、個展と旅行を藤田とマドレーヌは謳歌し、2年余の大旅行を経て、'33.11.17に日本に帰国(マドレーヌは初来日)。
 以前、藤田はユキと'29にも帰国をしていたがその時はあまり歓迎されていなかった。しかし、今回の帰国では、日本のマスコミは好意的に取り上げられた。
 当時の朝日新聞(帰国前日の16日の記事)は「世界的な藤田画伯は、パリから南北両アメリカに渡って各地で絵行脚を続けてゐたが、新夫人同伴で明日帰朝する。これは退役陸軍軍医総監・藤田継章翁の八十の賀に列席のため」。藤田家の談話は「当分は日本に滞在して親孝行がしたいと言っていたから、その通り実行するのでせう。アメリカで描いたスケッチが沢山たまってゐて、東京で落ち着いてまとめたいと言ってゐる。今度連れてくる家内は前のユキと別です。女房運が悪くて困ったが、今度のマドレーヌは好さそうだ、といってゐます」と掲載された。
 藤田とマドレーヌは父の家ではなく、二番目の姉やすの嫁ぎ先、東京府戸塚町(高田馬場)の中村緑野(陸軍軍医総監)宅に寄寓。藤田は精力的に画業を行う傍ら、マドレーヌは元々モンパルナスの踊子であり、歌も達者だったのでシャンソニエとしてラジオ出演をした。これに注目した日本コロムビアから立て続けに2枚のレコードを発売。'34.10「みんなあなたに」(相馬仁作詩・倉重瞬介作曲)/「恋はつらいもの」(相馬仁 訳詩)。同.11「若き闘牛士」(千家徹三作詩 R.デュフォル作曲)/「九尺二間」(相馬仁作詩 R.デュフォル作曲)。いずれも日本語で歌われたタンゴや和製シャンソンである。マドレーヌは二年間の藤田との旅の間、日本語を学びマスターしていたとされる。
 マドレーヌは奔放な女性で、気性が荒く、もともとアルコール中毒なうえにモルヒネにも頼っていた。日本ではモルヒネが大っぴらに買えないことと、母親の病気、また藤田とのすれ違いも重なり日本に馴染めず、'35一人でフランスに帰国した。マドレーヌがフランスに帰っている間、藤田は日本橋の料亭仲居で純日本風の堀内君代と親しくなり四谷左門町に愛の巣を構えた。一方フランスに戻ったマドレーヌには既に居場所がなく、また藤田を支援していた薩摩治郎八(大富豪・バロン薩摩)から「藤田に新しい女ができた」と吹き込まれて嫉妬に駆られ、翌'36.4 再び来日した。
 来日したマドレーヌは藤田の愛人の君代(後に五番目の妻となる)を確認、悶着を起こす。二か月後の6月29日に戸塚の家で急死。享年29歳(報道では27歳)。その数日前に日本ビクターが3枚目のレコード吹き込みをしており、同.7 「雨の夜は」(白石正之助作詩 ヒムメル作曲)/「別れ行く」(堀内敬三作詩 フネマイヤー作曲)を発売している。
 マドレーヌの突然の死は入浴中にモルヒネ中毒の急激な症状を起こして亡くなったという説が有力であるが、様々な報道と憶測を呼んだ。翌日の朝日新聞は「戸塚の自宅で就寝中午前三時頃脳血栓を起し急逝した」。マドレーヌの悪い素性が広がった上、藤田の父親は藤田嗣章(陸軍軍医総監)であり、急死した場所は姉の嫁ぎ先である中村緑野(陸軍軍医総監)宅であったことからも陸軍の陰謀論も混じった。早朝倒れているところを発見され、すぐに医師が駆け付けたが手遅れであった。変死であり外国人であったこともあり、直ぐに特高の諜報部と連携して処理が行われている。その速やかな処理をも多くの憶測を生む動機とされた。後に執筆された書物でも、近藤史人の著『藤田嗣治「異邦人」の生涯』では「コカイン中毒で急死」。湯原かな子の著『藤田嗣治 パリからの恋文』では「アルコールと薬物で心身を冒されて極度の精神衰弱を病んでいた。自殺説から他殺説までさまざまな風説が飛び立った」。田中穣の著『評伝藤田嗣治』では「庭の芝生に散水中に禁断症状の説、ひとり浴槽につかっていての説あり。警視庁詰めの記者団から、死因を究明せよという抗議のまじった要望があったとも伝わる」。なおこの著には薩摩治郎八のマドレーヌと藤田との逸話も紹介しており、「彼女はアメリカの実業家の妾だが、彼がやくざな人間とわかり、たんまりせしめていた金とダイヤを頂戴して南米に逃げた。モルヒネ中毒で、その手配もした」と記している(真意は不明)。
 藤田本人はその死を悼んで、没後もマドレーヌをモデルとした肖像を多数描いている。代表的なものに『私の夢』(1947年、新潟県立近代美術館・万代島美術館)などがある。またマドレーヌの遺骸を自身の妻として多磨霊園に葬った。

<藤田嗣治5:高田馬場でマドレーヌ夫人急死>
<藤田嗣治と5人の妻たち−鴇田とみ、フェルナンド、ユキ、マドレーヌ、
堀内君代・芸術新潮 2018年 08月号 など>
<山口尚夫様から情報提供>


墓所
墓 側面 墓 側面

*墓所は正面洋型「和」の墓石が建ち、右側に藤田嗣治建之のマドレーヌ墓が建つ。墓石は和型に十字架「ICI REPOSE MADELEINE EUGENIE LOUISE LEQUEUX FOUJITA」と刻み、右面「昭和拾四年六月廿九日 藤田嗣治 建之」とある。裏面は「NEE DORMANS MARNE FRANCE LE 23 AOUT 1906 DECEDEE A TOKIO LE 29 JUIN 1936」と刻む。

*「和」の墓石の右面には「2015年9月 油田和次 和歌子 建之」と刻み、裏面が墓誌になっており、「油田和次 1918.10.6-2015.1.4」と油田和歌子の名が刻む。油田家と藤田嗣治やマドレーヌとの関係は不明。

*藤田嗣治の兄であり法制史学者の藤田嗣雄(19-1-13)の墓は多磨霊園にある。藤田嗣雄は藤田家の長男で代々墓を守る身であるが、マドレーヌの墓はここではなく、油田家の墓所に建つ。

*戦後の藤田嗣治(1886.11.27-1968.1.29)は、1955フランス国籍を取得。レオナール藤田としてフランスの地で画業を行い、1968フランスの地で没す。「平和の聖母礼拝堂」(通称「フジタ礼拝堂」)に埋葬された。2009(H21)5番目の妻で藤田と25歳差であった君代(マリー=アンジュ)が亡くなる。君代の遺言により藤田と共にこの礼拝堂に埋葬された。マドレーヌは日本、藤田嗣治はフランス、共に故国を離れて眠る。



第169回 藤田嗣治の4番目の妻 マドレーヌ・ルクー・フジタ お墓ツアー


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