岡山県津山市出身。藤田俊助の3男。兄は藤田生八。
1897.12.28(M30)海軍造船学生となる。1899.6.20(M32)東京帝国大学工科大学造船学科卒業。同.6.29 海軍造船中技士を任じられ、呉造船廠造船科主幹に配属される。1900.2.12 海軍兵学校機関術教官を兼務。'01.10.1 海軍造船大技士に進む。
'03.11.10 教官を継続しながら呉工廠造船部部員になる。'04.1.8 造船監督官として英国出張。'06.5.19 帰朝。同.10.1 旅順工作部部員。'07.9.28 造船少監に進級し、'08.8.12 呉工廠造船部部員に戻る。'10.12.1 造船中監に昇格し、'12.9.18(T1) 再び造船監督官となる。
'15.5.26 佐世保工廠造船部部員に転じ、同.12.13 造船大監となり、技術本部員(四部)。'16.7.19 陞任し舞鶴海軍工廠造船部長に補せらる。次いで、'18.12.1 佐世保海軍工廠造船部長に就任。'19.9.23 造船大佐を経て、'20.12.1 造船少将に昇進した。溶接によるブロック建造方式を完成させることになる「溶接技術のエキスパート」福田烈に電気溶接の学ぶことを奨めた逸話は有名。
'23.8.13 艦船本部出仕、同.12.1 待命、同.12.5 予備役編入。その後、浦賀船渠会社取締役、浦賀工場所長を務める。'33.6.12(S8) 後備役、'38.6.12 退役。'42.11.1 最終階級の名称が海軍技術少将に変更となる。従4位 勲3等。
*墓石前面「藤田家之墓」。左側に墓誌が建つ。戒名は西光院釋浄益居士。妻は ただ(タヾ:M16.3-S29.1.22)、東京出身、野崎勝愛の養子。長男は藤田襄治(M44.11生)。孫に演劇評論家の藤田洋がいる。
※藤田洋の両親に関しての資料が見つからず不明。様々な資料で藤田益三の子は藤田襄治しか記載がない。藤田洋が藤田益三の子であるとすると、益三が60歳、ただ が50歳の子となる。益三に後妻はいない。襄治の子であれば22歳の子となるため、年齢的に藤田洋は藤田益三の孫とした。しかし、父であるべき藤田襄治は墓誌に刻みがない。なお妾や養子の可能性もあるが、関係性の点は不明であるため、ご存じの方はご一報ください。