新潟県中頸城郡保倉村(上越市)出身。1896(M29)東京高等商業学校(一橋大学)卒業。同年、三菱合資会社に入社するが、翌年退社し、逓信省入省し、新橋駅貸物係となる。
1906東京外語学校ロシア語科修了。'07帝国鉄道庁経理部調査課主事。翌年、鉄道院主事。'10鉄道院副参事の時に第1回在外研究員としてロシア・イギリス視察に派遣。
'12イギリスのサウサンプトン港よりニューヨーク経由での帰国途上、唯一の日本人乗客としてタイタニック号に乗船し事故に遭遇した。
無事生還するも誤報により非難を受ける。翌年、鉄道院主事を免官された。'25(T14)鉄道事務官退官。その後、岩倉鉄道学校(岩倉高校)で勤務した。享年70歳。戒名は西巴院釋正文居士。従五位、勲六等。
長男で正文没後当主となったのは細野日出児(1999-1981.3.27 同墓)。二男の細野日出男は交通学者。孫の細野晴臣はYMOで活躍したミュージシャン。なお、細野晴臣の父は細野日出臣。
【タイタニック号沈没】
全長270メートルの世界一巨大な豪華客船「タイタニック号」が1912年4月10日イギリスのサウサンプトン港から出港した。
「不沈」を謳う同号の処女航海であり、無事故を誇るE・J・スミス船長の最後の航海となるはずであった。
出航から四日後の夜、タイタニック号には氷山が近いという警告が六度も寄せられていた。
しかし、スミス船長や通信士たちの油断によって情報は活用されず、氷山とまともに衝突した。
すぐさま救命ボートによる避難活動が行われたが、救命ボートの正確な搭乗可能人数や救命ボートを全て使っても乗客の半数も救助できないこと、タイタニック号の沈没が確定的であったことなどの情報をスミス船長は航海士たちに伝えていなかった。
タイタニック号は氷山衝突から二時間四十分後に沈没。その際、救難信号SOSを発信、これが難破船が発した最初のSOSとされる。
千五百人以上が命を落とす未曾有の悲劇のなか、数多くの英雄と卑怯者が生まれた。
英雄は、最期まで演奏を続けた楽団員たちや、女性にボートを譲り死地に赴いた多くの紳士たち。
卑怯者は、近距離で救難信号を受けながら、危険を恐れて見捨てた「カリフォルニア号」のロード船長や、タイタニック号を所有するホワイト・スター汽船会長でありながら救命ボートに飛び乗ったブルース・イズメイたちであった。
また、三等船客の大部分が英雄にも卑怯者にもなれずに船内で溺死した。
13歳から船員として経験を積んでいたチャールズ・ライトラー二等航海士は、果断さが失われていたスミス船長やワイルド航海士長をせっつき、女性と子供を優先して救命ボートに乗せる許可を引き出し、全ての救命ボートを降ろすと「千本のナイフに斬られるような」海に飛び込み、沈没時の水流に二度引きずり込まれながらも脱出。
機関車二台が入る巨大な煙突の落下を数インチの差で避け、転覆した折り畳みボートにたどり着いて生還した。
勇気ある航海士として賞賛を得た。また、事故直後、近海にいた船が救助に向かわない中、タイタニック号から約100キロ離れた場所にいた「カルパチア号」が現場に急行し、705名を救助、船長のアーサー・ロストロンは英雄として讃えられた。
細野は二等船室に乗り合わせていた。沈没間際に救命ボートに乗客が乗り込む場面で遭遇し、二人分の余裕があるという声を聞き、乗り込み一命を取り留めた。
多くの犠牲者を出した大事故で生還したにも関わらず、有色人種差別的な思想を持っていた白人乗客の書いた手記によって、卑劣な手段で強引に乗り込んだ「恥すべき行いをした日本人」として伝えられ、新聞や教科書にまで批判の文章が掲載された。
これに関して、細野は一切の弁明をせず不当な非難を生涯耐えた。
死後、1941救助直後に残した事故の手記が発見され、1997タイタニックの遺品回収を手がけるRMS財団は細野の手記や他の乗客の記録とも照らし合わせた調査から白人乗客と細野は別の救命ボートに乗っており人違いであることが確認された。手記には細野が乗り込んだ救命ボートにはアルメニア人男性と女性しか乗っていなかったと記されていた。
事故当時、細野はひげをはやしていたこともあり、アルメニア人2人と記録されていた。
一方、卑劣な日本人と記録した白人は別ボートに乗っており、同乗者には中国人がいたことが明らかになった。
事故一ヵ月半後に帰国した細野を読売新聞がインタビューした際の記事内容とも一致していたこともあり名誉回復がなされた。
しかし、事故から時間が空いていることもあり、その間に起きた菊川忠雄(18-1-18)らが犠牲になった洞爺丸海難事故の際にタイタニックの非紳士的対応の誤報が取り上げられるなど誹謗が蒸し返されることもあり、また世界のメディアでも同様な扱いを取り上げるなど、いまだ十分に認識されていない。細野の孫でミュージシャンの細野晴臣はツアーなどで祖父の名誉回復に努力している。
1985.9.1海洋考古学者ロバート・バラード率いるアメリカ海軍は海抜3650mに沈没したタイタニック号を発見。1997(H9)映画「タイタニック」により、注目を集める。