東京 芝日陰町出身(新橋駅近く)。堀茂吉の長女として生まれる。本名は「たま」。
もと芸妓で東京向島で「小たま」と称した。のち新橋にうつり、哥沢芝加葉満(うたざわ しがはま)を名乗った。
当時江戸小唄の草分けといわれた横山さき に師事。小唄とは花柳界の御座敷という特殊な世界で誕生し、江戸時代末期から明治、大正、昭和と発展し、現在まで伝えられている、粋と色気が最も大切なテーマの三味線音楽である。
小唄の修練に努め、師の後援を得て、1913.3(T2)東京芝日陰町に於いて小唄堀派を創立した。'16 小唄稽古所をひらく。翌年、'17 師匠の横山の推薦、当時政界の長老であった望月圭介(6-1-16-12)の後援により、著名人 数名の連署をもって小唄家元の認可申請書を東京都に提出し、小唄家元第一号の官許を正式に得た。この「堀派」が小唄界の最初の流派とされている。
'23.9.1 関東大震災で被災し、東京が壊滅したため大阪に移り、道頓堀で小唄の稽古場をつくった。これが関西進出の第一歩となる。関西での堀派小唄の成長は著しく、関西地区だけで1000名以上の会員を有する巨大組織になった。日本の小唄全盛時代は関西でも連日小唄の会が開催され早朝から深夜まで連続して華麗な舞台が続いたそうで、堀派関西地区は大変な隆盛を極めたとされる。
その後、中国地方、九州地方、北陸、四国その他各地にも進出し堀の小唄が広まった。この時期が小唄史に残る小唄全盛時代の幕開けであったとされる。
関東復興の後は東京へ戻り、'33(S8)1933年 京城(ソウル)で堀派として小唄演奏会を開催。'39 NHK愛宕放送局よりの小唄の放送中、突然 病に倒れ、療養を続けていたが、二年後 逝去。享年64歳。
堀小多満没後、家元を置かず、理事役員を置き堀派会として組織を改め継承され、東京事務所、大阪事務所(関西堀派会)をそれぞれ設置し、現在でも小唄堀派会の会員は日本全国で継承されている。また小唄堀派会関西地区の尽力により、台湾・香港・カナダ・ロシアでも堀の小唄が知れ渡り、海外にも愛好者を広げている。特に台湾では名取、師範まで誕生している。
堀派会記念会(小唄演奏会)も継続実施され、'62(S37)に50周年、2013(H25)には創流百周年記念の小唄会が東京国立劇場と大阪国立文楽劇場において百周年記念小唄会が盛大に開催された。