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ひしぬま へいじ

菱沼平治

ひしぬま へいじ

1869(明治2)〜 1937.11.15(昭和12)

明治・大正・昭和期の英語教育者

埋葬場所: 3区 1種 3側

 宮城県仙台出身。宮城中学校に入学したが2年足らずで家事の都合により中退。 上京し、1884(M17)東京成立学舎高等予備科、翌年、東京英語学校、東洋英和学校で学んだ。1889神戸関西学院で英語教師。 神学部外国人教師のために心理、倫理、神学の講義を通訳した。1892同校幹事となり普通部で英文学および歴史を教えた。
 1899文部省英語検定試験に合格して教員資格を取得。当時の英語教官は東京帝国大学出身者が多かったが、独学に近い形で英語を学習し、検定に合格し教壇に立つ珍しいケースであった。 なお、この時、菱沼と共に合格した者に浜村善吉、中西保人、永野武一郎らがいた。また、その3年後には、妻の小夏(同墓)も検定に合格し、おしどり夫婦と言われた。 合格した年に上京し、正則英語学校高師となり、翌年、麻布中学校英語科主任となった。その間、暁星学校でフランス語の学習も行ったという。
 1904広島高等師範学校講師として赴任。'07広島高等師範学校教授となる。 '09休職して2年間、シカゴ大学で日本語の講師をしながら、同大学研究科で英語英文学、倫理学、社会学、聖書釈義を修め、'11M. A. を取得した。 修士論文は ”Comte’s Religion Humanity and Its Criticism”。帰国後、再び広島高等師範学校教授として英語英文学を担当。 '13(T2)〜'17文部省視学委員を牽引。'22文部省在外研究員としてロンドン大学、ケンブリッジ大学、ベルリン大学で英文学、英語史、古英語、中英語、音韻学、言語学の研究をした。帰国後、英語英文学を教える傍ら、英語部主幹、生徒監を兼任。
 '28(S3)広島高等師範学校を辞任し、神戸女学院専門部長となった。'34定年退職したが、講師として病気で倒れるまで出講した。 その間、関西学院大学理事。主な著書に ジョン・ミルトン著作の『Comus』(コウマス)の訳著(1919)がある。享年68歳。没後、'39須貝清一ら卒業生により『菱沼先生遺稿集』が出された。

<松村幹男「菱沼平治と英語教育」>
<英語教育史資料>
<森光俊様より情報提供>


墓所正面 墓所全体

*墓石正面に「菱沼平治之墓」と刻む。

*正面に二基並び、右側が「菱沼平治之墓」、左側が妻の「菱沼小夏之墓」。墓所左側に和型「菱沼家之墓」が建ち、その左に墓誌が建つ。同墓に眠る菱沼勇は商工省官僚・郷土史家。


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