東京市芝区下高輪町出身。父は平松福三郎(同墓)は弁護士。七男四女の兄姉弟妹がおり、姉の平松麻素子(同墓)は芥川龍之介の秘書や晩年の作品の作家活動支援者として活動。兄の平松英彦(同墓)も大林組で活動した建築家であるが若くして亡くなった。
父の福三郎は有楽町に法律事務所兼公証人役場を開いていたが、1919(T8)出口王仁三郎の大本教に入信して東京支部長となり、弁護士を廃業し教団本拠地がある京都亀岡に移住してしまった。そのため姉の麻素子が一家の中心となり養育された。東京美術学校卒業後、兄の平松英彦が勤めていた大林組に入り、創宇社建築会メンバーとなる。
戦後、創宇社建築会メンバーの仲間であった今泉善一、道明栄次と共同経営の東京建築事務所を開設。社長は平松の美校の先輩で大林組設計部長であった木村得三郎を招いた。習志野市長であった白鳥儀三郎(評論家)との親交により、千葉県内の小学校の設計を請け負う。
'47(S22)NAU(新日本建築家集団)の事務局長に就任。自身の事務所にNAUの事務所も同居させた。NAUを通じて労働組合関係にコネクションが強く、全国造船労組会館(千駄ヶ谷)、新日本文学会、八幡製鉄労働組合会館など設計をした。1950年前後から戦後政治の激動期に入り、日本共産党の幹部の公職追放、朝鮮戦争、公務員レッドパージなどの労働組合や民主的運動への弾圧は、NAUの運動にも大きく影響を与え、幹部の辞退や動揺などで次第に衰退した。NAUと連動していた東京建築設計事務所も煽りを受け、借財を負い立ち行かなくなった。'52NAU活動停止により事務局長を辞す。経営陣の今泉、道明、木村の3人と所員4人が辞め、平松ひとりが借財を負い事務所を継続。'59社名を平松建築設計事務所と変え代表取締役に就いた。前身から残ったスタッフは建築家の小町和義を含む3人のみでの再出発となった。
代々木病院など民医連の仕事、アカツキ印刷(共産党機関紙工場)、共産党本部など、共産党関係の仕事が多くなる一方、平松の姪が政治家の河野謙三の夫人(園子)である縁から、共産党と対極にある自民党の河野謙三邸宅、兄の河野一郎邸宅を設計した。享年74歳。