東京市芝区下高輪町出身。父は平松福三郎(同墓)は弁護士。戸籍上の名は「ます」。「ます子」とするときもある。七男四女の兄弟姉妹がおり、兄の英彦や弟の義彦(共に同墓)は建築家。
東京女学館卒業。若くして結核を罹患していたため、卒業後は家事手伝いをしていた。父の福三郎は有楽町に法律事務所兼公証人役場を開いていたが、1919(T8)出口王仁三郎の大本教に入信して東京支部長となり、弁護士を廃業し教団本拠地がある京都亀岡に移住してしまった。そのため麻素子が一家の中心となり残された弟妹の面倒をみるために家事に従事。多忙な身となり無理がたたり結核の症状があらわれてきた。
'20 幼馴染で作家の芥川龍之介の妻である芥川文から、夫の執筆の助力をしてもらいたいと紹介された。文の回想では「『秋』をかくに際し、主人が、女の人は普通、どんな手紙を書くのだ、髪型は、私に聞くものですから、あまり確かなことも云えず、なら麻素子さんを紹介しようと、主人と話も合いそうだし、頼んで時々家に来てもらいました」と述べている。
関東大震災で高輪の家が被災したため、平松一家は一時、父の福三郎の長兄の住む田端に身を寄せた。これにより芥川家から近くなったため、その頃より麻素子は芥川家への訪問が頻繁となった。以降、芥川龍之介の晩年の秘書のような作家活動支援者となる。『或阿呆の一生』の「47 火あそび」「48 死」に麻素子は登場する。また『或る旧友に送る手記』登場の女性でもある。
麻素子の弟の平松定彦(同墓:H9.7.14歿・83才)の回想では、「芥川さんは文さんより、麻素子がそばにいるほうが遥かに落ち着いた。『河童』『歯車』は麻素子の支援でかけたという。麻素子がどうせ結婚できない体ということは文に安心感を与えていたという。さりとて芥川が麻素子に女を感じないはずもない。『或阿呆の一生』には“彼は彼女に好意は持っていた。しかし恋愛は感じていなかった”というがどこまで信用できるやらわからない。」と述べている。
麻素子は芥川龍之介の秘書のような立場として仕事面を献身的に支え、父の福三郎が帝国ホテルの支配人の犬丸徹三と知り合いであったことから、ホテルの一室を仕事と場として紹介。『河童』や『歯車』は麻素子の支援を受けてここの場で完成させている。この時期、芥川龍之介は義兄の鉄道自殺などで東奔西走の忙しさで、神経衰弱を患っていたため、文から芥川龍之介の監視役を頼まれていたともされる。
'27.4.7(S2)芥川龍之介は麻素子と帝国ホテルで心中することを計画したとされる。「いっしょに死んでくれ」と情死をもちかけられたとされるが、麻素子が芥川龍之介の気持ちを静め自殺を食い止めた。翌月、再び芥川龍之介は帝国ホテルでの自殺を計画したが未遂に終わる。麻素子の知らせで文たちがホテルに駆けつけた時には、服薬した後で昏睡状態にあったが手当てが早かったため覚醒した。芥川龍之介が自殺場所を帝国ホテルにした理由を、種々の国際的人物が宿泊する関係上、時たま自殺者があっても、表沙汰にならいことを関係者側の人から又聞きの又聞きで聞いたからと言っている。また「麻素子さんは死ぬのが怖くなつたのだ。約束を破つたのは死ぬのが怖くなつたのだ。」とも述べたとされているが、駆け付けた文から「死に急ぐべきではない」ときつく叱られたとされる。結果的に麻素子は芥川龍之介との心中に二度遭遇しながら思いとどまり通報して未遂に終わらせた。しかし、その二か月後の7月24日に、あらゆることを嫌悪し生き延びる意思を失ったと、自室の妻の文の横で芥川龍之介は服毒自殺にて果てた。辞世の句は「水洟(みずばな)や鼻の先だけ暮れ残る」。
麻素子は戦後、結核が悪化し国立武蔵療養所に入院したが、ほどなく逝去した。享年57歳。その後もしばしば芥川龍之介心中未遂事件として週刊誌等で取り上げられることも多く、'94(H5)芥川龍之介と麻素子との書簡が発見され注目された。特に「芥川龍之介の三人の女、秀しげ子、平松麻素子、片山広子」として取り上げられることが多い。