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ひご きいち

肥後基一

ひご きいち

1901(明治34)〜 1978.12.4(昭和53)

昭和期の点字出版事業家

埋葬場所: 11区 1種 9側

 14歳で失明。1926.4.1(T15)点字出版事業を行うため「日本鍼按協会」を創立。同年、点字月刊雑誌『鍼治マッサージ』を発行。主に医学書を発行しながら、点字本の普及に努める。'34(S9)より日本鍼按協会編、盲学校鍼按科用教科書全18冊を編纂発行を行い、全国の盲学校で使用される。物資不足の中点字用紙の配給を受けるため'42星文社と改称し、日本出版文化協会(日本出版会)に加入。'44強制勧告により東京光の家出版部と合併し東京点字出版所と改称。戦時中は、盲学校中等部用普通科教科書、日本聖書協会の委託で新訳・旧訳点字聖書を発行、印刷した。合併した東京光の家出版部で20年来発行を続けていた月刊点字雑誌『小鳥の歌』の発行を受け継ぎ、'45雑誌名を『点字の友』と改題して発行。『点字の友』は現在も発行が継続されている。戦後、盲人の救護施設としても活躍していたことなどもあり、'48宮内省より事業奨励を賜る。同年、NHKの英会話テキストをはじめ学術書など多くの書物の点訳発行を行う。また'52より国語辞典や学習百科事典、英和辞典など多くの事典類を点訳発行するなど、点訳の筆頭として事業を拡大した。加えて、'57より文部省著作教科書の発行者として、全国の盲学校に点字教科書の供給を続けている。
 '58基一所有の土地、建物、機械器具一切、及び点字書原版52,425枚を寄附し、社会福祉法人東京点字出版所を設立し、理事長となる。この間、日本盲教育会設立。数学記号で今関案の日本盲教育会は、沢田案の帝国盲教育会と対抗した。日本点字委員会(日点委)の2代目会長を歴任。'70第7回「点字毎日文化賞」受賞。'78.11.14体調不良のため、理事長を辞任し、後任に長男である肥後信之(1928-2004.3.11 同墓)が就任した。同年12月4日没す。享年74歳。勲五等瑞宝章。主な著書に『簡明按鍼学』『点字の書き方』『点字の研究』『点訳者のための読み分け・書き分け辞典』など多数。

<東京点字出版所あゆみ等>


墓所

*墓石前面は十字架を刻み「肥後家之墓」、裏面「昭和七年四月 肥後基一 建之」。右側に墓誌が建つ。4才で亡くなった基一の次男の進(S7.3.4永眠)から刻みが始まる。基一の妻は肥後じゅん(S43.11.20永眠・行年76才)。基一の長男は肥後信之(H16.3.11永眠・行年77才)、信之の妻は肥後のぶ子(R1.7.17永眠・行年89才)。信之の長女の秋吉英子(R2.11.4永眠・行年64才)も眠る。

*長男の肥後信之は基一没後、第2代 社会福祉法人東京点字出版所理事長を務める傍ら、俳号を肥後秋晴子として俳人としても活動した。墓所左側には秋晴子の歌碑が二基建つ。手前「風音は 空ゆくばかり 寒椿 秋晴子」、奥「暮れなづむ あきつの空や 母の声 秋晴子」。


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