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はやし けんさい

林 賢材

はやし けんさい

1900.3.6(明治33)〜 1995.9.1(平成7)

昭和期の銀行家

埋葬場所: 15区 1種 10側

 東京出身。倉西松次郎の4男。前名は倉西志郎。1901(M34)林賢徳(同墓)の養子。'14(T3)家督を相続し、志郎の名を賢材に改名。
 '24 東京帝国大学経済科を卒業。同年、日本最初の信託会社「三井信託会社」設立に伴いに入社。金銭信託業務、文書部長などを歴任。
 '45.5.26 戦争の空襲により妻と子息二人を亡くす。
 戦後、'47(S22)島田盛雄社長が公職追放により辞任したため、常務取締役であった賢材が第6代 三井信託の社長に就任。財閥解体で名称を東京信託銀行と改称し、銀行業務も兼営。この時、発足した貸付信託制度は資金吸収に大いに効果を上げた。'52.5.7 財閥商号の使用禁止等に関する政令廃止がなされたため、同.6.1 三井の旧名称に復帰、社名を三井信託銀行株式会社に戻し、三井信託銀行社長を継続。
 その後も、高度経済成長もあり、'56 動産設備信託業務開始、'58 証券代行業務など、戦後の混乱期を乗り越え幅広く展開を拡大していった。'60.5.30 社長を退任(在任13年)。その後は社団法人信託協会会長などを務めた。享年95歳。

<朝日日本歴史人物事典>
<ブリタニカ国際大百科事典>
<三井信託銀行五十年史>
<人事興信録>


墓所
林氏累世之墓 林賢徳

*墓所には正面に墓石が3基、右側に古い墓石が3基建つ。正面右から和型「従六位 勲六等 林賢徳 / 夫人 藤子 墓」、真ん中の墓石、和型「林氏累世之墓」、左側の墓石、和型「林賢材夫妻子女之墓」。「林賢材夫妻子女之墓」の墓石の左面に林賢材が刻む。戒名は常照院釋賢吾。右面には戦災で命を落とした林賢材の妻の竹子(M35.4-S20.5.26・享年44:男爵の本多政樹の妹)、二女の和子(S5.12-S20.5.26・享年16)、四男の孝徳(S7.4-S20.5.26・享年14)が刻む。戦災以外で亡くなられた賢材の家族たちは、右側の林賢徳墓石の右面と裏面に刻む。右面には林賢材の長男の林賢彦(T15.9.1歿・行年3)、賢材の後妻の公枝(H11.5.27歿・行年90)、林賢材の三男の林昭三(S3-H18.3.25)が刻み、裏面には林賢材の二男の林賢二(T15.3-H23.9.17歿)が刻む。なお、賢材の長女の徳子(T12.1生)は男爵の内海勝二の三男の内海通勝(鐘淵紡績)に嫁いだ。


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