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はやし けんとく

林 賢徳

はやし けんとく

1838(天保9.9.8)〜 1914.6.13(大正3)

明治時代の実業家、日本初の私鉄敷設の先駆者

埋葬場所: 15区 1種 10側

 加賀国(石川県金沢)出身。金沢藩士の林市之丞の長男として生まれる。号は浩堂。
 維新の際、海軍を志し江戸や横浜に遊学。明治になり民政局出仕を経て、海軍兵学校教官、海軍秘書官などを歴任。
 1875(M8)士族授産を目的に東京麻布に農学舎(学農社)をおこす。また、1876 鉄道の重要性を主張し、1978 官設鉄道以外の会社方式による鉄道建設を目的に東山社を設立。1981 岩倉具視らの賛同を得て、旧大名や公卿たちが秩禄処分で得た公債を元本として、日本初の私設鉄道会社の「日本鉄道会社」(日本鐵道株式會社)を創業し理事となる。
 国家の手厚い保護のもとに、1883.7 上野−熊谷 間、翌年に熊谷−前橋 間、そして1891.9 上野−青森 間を全通 (現在JR東北本線・高崎線・常磐線の大部分)の建設を進めた。
 1892 官設鉄道から事務を引き継ぎ自営体制を整えた。理事委員・検査委員・取締役を歴任したが、1906 鉄道が国有化されることにより重役を辞任した。
 他に、1897 七尾鉄道会社の創立に従事し取締役に就任。岩城鉄道監査役なども歴任した。わが国私鉄敷設の先駆者と称される人物である。
 また、上京した学生たちの拠り所となり学業を全うできるような施設が必要と考え、学生寮の建設を提言。自ら多大な私財を投じるだけでなく、多くの有志と資金を集め、1908(M41)現在の文京区小石川に寄宿舎「明倫学館」を開館し、郷里の青年の育英事業にも尽力。その後、明倫学館は育英舎に吸収合併(1913)し、加越能育英社(1931)へと発展していく。享年75歳。

<コンサイス日本人名事典>
<近代日本の先駆者事典>


墓所
林賢材夫妻子女之墓 林氏累世之墓

*墓所には正面に墓石が3基、右側に古い墓石が3基建つ。正面右から和型「従六位 勲六等 林賢徳 / 夫人 藤子 墓」、左面に林賢徳と藤子の戒名や生没年月日が刻む。戒名は敬信院釋賢徳居士。妻は藤子(S3.9.1歿・享年72)。右面は墓誌となっており林賢材の長男の林賢彦(T15.9.1歿・行年3)、賢材の後妻の公枝(H11.5.27歿・行年90)、藤子の異母弟の相良巽(鉄道院技師)、林賢材の三男の林昭三(S3-H18.3.25)が刻み、裏面には林賢材の二男の林賢二(T15.3-H23.9.17歿)が刻む。

*正面真ん中の墓石、和型「林氏累世之墓」、右面「明治十八年三月 林賢徳 建之」。正面左側の墓石、和型「林賢材夫妻子女之墓」、右面は墓誌となっており、戦災で命を落とした林賢材の家族、妻の竹子(M35.4-S20.5.26・享年44:男爵の本多政樹の妹)、二女の和子(S5.12-S20.5.26・享年16)、四男の孝徳(S7.4-S20.5.26・享年14)が刻む。左面は林賢材のみが刻む。戒名は常照院釋賢吾。なお、賢材の長女の徳子(T12.1生)は男爵の内海勝二の三男の内海通勝(鐘淵紡績)に嫁いだ。

*人事興信録には林賢徳の妻を みや(安政4.2-)としているが、墓石に刻みは見当たらない。なお、みや は鹿児島県出身。與倉守人の長女と記してあった。



第219回 日本初の私設鉄道会社「日本鉄道会社」創業者 林賢徳 お墓ツアー


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