メイン » » » 早川徳次
はやかわ のりつぐ

早川徳次

はやかわ のりつぐ

1881.10.15(明治14)〜 1942.11.29(昭和17)

大正・昭和期の実業家(地下鉄道先駆者)

埋葬場所: 15区 1種 4側

 山梨県東八代郡御代咲村(笛吹市一宮町)出身。御代咲村村長を務めた早川常富、ゑひ(共に同墓)の4男(4男3女の末っ子)として生まれる。長兄の早川富平(同墓)は山梨県会議員を務めた政治家で、徳次は養子になっている。なお、1924(T13)富平没後に家督を相続した。また、次兄の小松導平(1878-1938)は笛吹川廃河川を開拓したことで知られ、現在の石和温泉街の基礎を築いたとされる人物である。
 1908(M41)早稲田大学法律科卒業。政治家を志し、南満州鉄道総裁となった後藤新平を募って満鉄に秘書課嘱託として入社。間もなく、後藤総裁の逓信大臣就任とともに辞職したが、短期間の満鉄での経験から鉄道の重要性を認識して、政治家志望を断念し、実業界への転向を決意する。鉄道業を習得して実業界へ転身するためには現業を体験する必要を痛感し、後藤に乞うて中部鉄道管理局秘書課に転勤し、鉄道業に関する一般事務を習得、さらに新橋駅員となって、改札掛、手荷物掛などの現業事務を体験した。'09東武鉄道会社に招かれ、買収した佐野鉄道(栃木県佐野-葛生間)の経営の主任者として約6か月間でその手腕を発揮して、民間事業経営の第一歩を踏み出した。この手腕を認められて郷里の先輩の根津嘉一郎(15-1-2-10)が社長となっている大阪の高野登山鉄道(南海高野線)会社の支配人に招かれ、経営不振に陥っていた同社の再建を2年半で成し遂げた。
 '14(T3)欧米各国の鉄道ならびに港湾の調査研究のため外遊したが、ロンドンの交通機関の発達に目を見はり、当初の目的である鉄道と港湾の調査を放棄して、都市交通機関の研究に移り、これからの都市交通は地下鉄を建設する以外に打開の道がないと確信し、さらにフランス、ニューヨークなど世界の主要な地下鉄道を調査研究、資料を蒐集して'16帰国した。
 ただちに地下鉄建設の調査を開始。まずは銀座の交差点などで自ら交通量調査を行い地下鉄の必要性を確信。豆を使って乗客流動調査を行ったり、地層図で軟弱な地層の下に固い地層があることを知る。渋沢栄一らの協力を受けて、'17浅草-上野-品川間の地下鉄道建設を目的として東京軽便地下鉄道会社の設立を申請、'20東京地下鉄道株式会社を創設した。専務に就任。関東大震災などの多くの困難を乗り越え、工事は'25上野-浅草間から始まり、'27(S2)12月30日わが国最初の地下鉄が2.2キロメートルにわたって開通、'34浅草-新橋間約8キロメートルが全通した(東洋初地下鉄道開通に成功)。現在の東京地下鉄銀座線の同区間である。当時は、「地下を走る電車」が人気を呼び、開業日には一時間待ちの行列ができた。
 地下鉄道は順次路線延長を進める上で、安全第一を掲げ、「社員読本」による教育などから始まり、警戒色を示す車体色(オレンジ色)の採用、打子式ATSの導入、全鋼・難燃化車輌の導入を行った。資金繰り対策として、阪神急行電鉄を手本とし、出入口にビルを建て、その中や地下鉄構内に店舗を配置、駅とデパートを直通させるなどして、建設費費用を徴収した。また、将来の輸送量増加に備え6両編成での運転に対応した設備を整えたり、地上線との乗り入れを視野に入れたルートを発案した。加えて、駅係員には鮮やかな青色の詰め襟の制服の着用、10銭硬貨を入れてハンドルを動かし改札を通過するターンスタイル式の「自動改札」の導入、定期券利用の通勤客向けに新聞の夕刊紙を駅入場時に受け取れるサービスを発案するなど、工事・営業・経理・顧客満足など多方面で手腕を発揮した。
 '40東京地下鉄道社長に就任。同年末より東急の五島慶太の東京高速鉄道(渋谷-新橋間)との株大量取得による経営権問題や駅の設計、列車の乗り入れに関する争いが起こり、鉄道省の地下鉄国営化の思惑も絡み、五島との経営権抗争に破れた。これにより東京地下鉄道と東京高速鉄道の和解の条件として、早川の引退が含まれることとなった。両社の事業は統合され、帝都高速度交通営団(営団地下鉄)が役立され、東京の地下鉄の運営は統制下に置かれることとなった。同時に早川は実業界から退いた。晩年は郷里の山梨で心臓発作のため逝去。享年62歳。主な著書に『地下鉄道』('38)、伝記に『上野発浅草行〜地下鉄を創ったある実業家の劇的な人生』('79)、『夢の地下鉄冒険列車〜地下鉄の父・早川徳次と昭和を走った地下鉄』('90)がある。没する前年の'41地下鉄新橋駅構内に「社長早川徳次像」の胸像が建立された。'77地下鉄開通50周年に際し、現在の場所である地下鉄銀座駅(プロムナード中央)に移動された。 同じ胸像は地下鉄博物館にもある。胸像の台座の碑文は、墓所内墓誌碑裏面と同じである。地下鉄の父と謳われている。

<土木人名事典>
<江戸東京をつくった偉人鉄人>
<早川徳次墓誌(徳次ノ略歴)>
<人事興信録>


墓所 墓誌

*墓所正面に二基、入口右手に古い墓石や地蔵も建つ。正面右側墓石が「早川徳次墓」、裏面「昭和十九年十一月二十九日 早川軻母子 建之」、右面に没年月日と享年が刻む。正面左側墓石は「早川家之墓」、裏面「平成四年三月吉日 早川満 建之」。その左側に墓誌が建つ。墓誌は早川徳次から始まり、戒名は修徳院円通大観居士。妻は軻母子(かもこ:1884.5-1973.3.28:淑徳院賢室壽光大姉)。長男の早川満(H8.6.2・行年80)、満の妻の昭和(H30.1.27・行年90)が刻む。墓誌の裏面には、徳次の両親である父の常富(T7.12.6歿)、母のゑひ(M15.8.15歿)、兄で養父の富平(T13.3.26歿)、兄の妻で養母の つね(1873-1956.1.15 :古屋彦太郎の妹、彦太郎は御代咲村村長や石和郵便局長を務めた豪家)が刻む。なお墓所に建つ灯篭は早稲田大学から寄贈されたものである。

*早川徳次の名前のヨミを「とくつぐ」「とくじ」とする人名辞典などがあったが、ここでは地下鉄博物館のプロフィール紹介「のりつぐ」で統一しています。またシャープ創業者と同姓同名ですが別人であり、そちらは「とくじ」。加えて、徳次の母親の名前を「つね」としているのを散見するが、実母は「ゑひ」であり、「つね」は兄嫁で養母である。

*妻の軻母子(かもこ)は望月新の長女。軻母子の兄の望月清矣と早川徳次は同郷の同級生。早川徳次が高野登山鉄道再建後、清矣の妹の軻母子と結婚。この時、仲人を務めたのが、清矣と軻母子の叔父で衆議院議員の望月小太郎。なお、望月清矣は英文通信社を望月小太郎から引き継ぎ社長を務める。1927(S2)早川徳次の依頼で地下鉄広告を扱うアングラ社(春光社)を設立しいている。

*早川徳次の墓の右側に「徳次ノ略歴」と刻む墓誌碑が建つ。墓誌碑の裏面は「台座ノ碑文」と題した碑文。これは難事業を経て地下鉄を創業し萬人の利便を良くした功績により皇紀二千六百年記念式典で緑綬褒章を賜ったことを記念し、銅像が新橋駅(現在は銀座駅)に建てられた際の台座の碑文を、長男の早川満がこの墓誌碑にも刻んだもの。下記は全文。 「夙ニ帝都ヲ立体的近代都市タラシムルノ計劃ヲ樹テ東京地下鉄道株式会社ヲ創設シ未曾有ノ難事業ヲ完成セリ 洵ニ是レ我国交通史上ニ一新紀元ヲ劃スルモノ 天か萬人之ニ依ツテ享クル利便頗ル大ナリ 其功績畏クモ天聴ニ達シ 皇紀二千六百年記念式典ニ際し 緑綬褒章ヲ賜フ 茲ニ同志相諜リ壽像ヲ建立シテ後世ニ傅フト爾云  一九九二年三月(平成四年) 早川 満 建之」



第220回 地下鉄の父 日本初の地下鉄創業 早川徳次 お墓ツアー


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・は行 | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。