茨城県日立市出身。日立の創業時からの技師で中央研究所所長の馬場粂夫、節子(共に同墓)の長男。
1938(S13)京都帝国大学建築科卒業。鉄道省に入省。'39.1 召集され、陸軍経理学校を経て、'40 建築要員として新京に赴任し、関東軍総司令部主計少尉として軍事施設の建設にあたった。'43(S18)建築家で恩師の藤井厚二の長女の福子(同墓)と結婚。'45.7 戦況悪化で妻の福子を内地に帰還させ、本人は新京の関東軍司令部で終戦を迎えた。最終階級は陸軍主計中尉。終戦後、ソ連に抑留され、モスクワ南方のマルシャンスク収容所でドイツ人やポーランド人の抑留者とともに強制労働に従事。'47.11 舞鶴港に復員、召集解除。
帰国後、運輸省鉄道総局に復職。'48 名古屋鉄道局施設部営繕課長となる。'49 名古屋市中村区牧野町に建設された国鉄アパートでは、各戸の仕切壁に軽量ブロックを用いたほか、太陽熱温水器、アルミサッシ窓などを採用し、新しい時代にふさわしい集合住宅の模範を示した。
'52 新設された千葉鉄道管理局の初代施設部長となったが、それまで土木系で占められていた地方鉄道局(鉄道管理局)の施設部長職に建築系として初めて就任した。'54 東京工事事務所次長となって、国鉄川崎火力発電所の工事を担当した。川崎火力発電所はボイラーの交換にあたって制震構造を採用されることになったが、高さ約30メートル、総重量約千トンという縦長の巨大なボイラーを懸垂式で建屋上梁(はり)から吊り下げる構造は前例がなく、日本建築学会に火力発電所耐震構造委員会を設置し、耐震建築の権威であった東京大学の武藤清教授の指導を受けた。このほか、鉄道技術研究所建築研究室で振動実験を実施、高張力鋼を採用するなどして、'57 本館が完成した。川崎火力発電所は、同年の日本建築学会作品賞に選ばれた。その成果はのちに学位論文としてまとめられ、'61 東京大学より工学博士。
'58.2 技師長室調査役に就任。国鉄総裁の十河信二が東海道新幹線の次の目玉となるプロジェクトとして、東京駅の丸の内駅本屋を超高層建築に建替えることを発案。当時の建築基準法で建築物は高さ31メートルに制限されていたが、東京駅八重洲口に絶対高さ制限を超える48メートルの高層ビル(東京会館ビル)を建設することが計画され、それを担当した。建築審査会の審査を経て、'53 着工。駅前広場の整備が遅れたことなどで、高さは制限内の地上6階まで完成した段階で、'54 いったん工事を中止していた。地震時の挙動の解明や耐震設計法の確立など多くの課題を克服するべく、国鉄では日本建築学会と日本鉄道技術協会に研究委託し、専門家を集めた検討を行う。馬場は委員として東京駅想定図の作成を担当した。'62 報告書が提出され、地上25階程度の高層建築の実現が可能であると報告された。結果、国鉄の経営悪化で25階の高層化の実現はしなかったが、12階建に増築して、'67(S42)に完成した。
'61 国鉄施設局建築課長に就任。同.6-8 日ソ貿易協会の主催する第二次ソ連産業視察団の一員として、ソ連や欧州諸国をめぐる。この視察で現実の仕事との間に矛盾を感じ、次第に都市問題に関心を持つようになったと回想し、単に東京駅を高層化するだけでなく、道路や周辺環境を含めた総合的な都市計画として実現すべきであると考えるようになった。'66 完成した大井工場の改良計画では限られた都市空間を有効活用するため品川電車区を二層構造とし、隣接して高層11階建の国鉄アパートを建てる計画をした。
'63 東京建築工事局長に就任。'66 国鉄を退職。退職にあたり、昭和80年(2005)に東京の人口が2000万人に達することを想定した首都圏の改造案をまとめた『東京2000万都市の改造計画』を出版。その後、新東京国際空港公団参与となる。反対運動により新空港の建設が進んでいない中、建築設計事務所の都市環境システム研究所を設立し、代表取締役社長となり、成田国際空港ターミナル建設に尽力。
'76-'86 中部工業大学建築学科教授となり、環境開発講座を担当。'84 鉄道建築協会会長。晩年は駅建築の設計者や沿革、系譜などを日本交通協会の会誌「汎交通」に連載をしていたが、逝去。享年70歳。没後、連載したものをまとめた『駅のうつりかわり-鉄道旅客駅変遷史-』(1988)が刊行された。