香川県綾歌郡川西村(丸亀市)出身。馬場孝太郎(同墓)の養子。第六高等学校では勉強をし過ぎて身体を害し、一年間休学。休学中に四国八十八カ所の遍路を実行。健康回復し復学。1910(M43)東京帝国大学電気工学科卒業。
卒業後、久原の日立鉱山に入社。小平浪平の配下として工作課技師を拝命。'20(T9)株式会社日立製作所分離独立に伴い引き続き日立勤務。'21.4 東北帝国大学工学部講師。'22.4 日立工場副工場長。'23.3 東京帝国大学より工学博士。'27.4(S2)北海道帝国大学工学部講師を務めた。
「電気機械の設計製作技術を自分たち日本人の頭と腕で」という信条を掲げ、大正年間から昭和初期にかけて日立工場において、自ら設計製作にあたり、機器国産化に心血を注いだ。'24(T13)国産最初の59トン電気機関車、'32(S7)昭和肥料納 10,000A 回転変流機10台、'33 八幡製鉄所納 7,000HP、最高出力 23,600HP ミルモータ、'36 国鉄信濃川発電所納 31,000kVA 水車発電機など完成させた。特に水電解そうは基本を商工省工業試験所の特許に置き、日立としては初めて手掛けた仕事であった。昭和初期の世界恐慌の際には、社運をかけ、技術国産の意気を社内に浸透させた。
また、'18(T7)いち早く技術雑誌「日立評論」の刊行を提唱し、小平浪平創業社長に直訴し実現させた。社内における研究開発の気運を盛り上げ、日立工場の激務の中、'34(S9)日立研究所を起し、自ら所長を兼務して研究開発の強化充実を計った。同年、日立取締役にも就任。'35 日立工場長、'36.10 常務取締役、'38 電気学会副会長、'39.4 多賀工場長を歴任。'40.10 専務取締役に就任し東京本社勤務となると、日立技術の基礎を固めるため、小平浪平社長の意を体して、'42(S17)東京の国分寺に中央研究所所長に就任。
'45 電気学会会長、'47.4 専務を退任。'48.12.-'51.7 電気学会・電気工学ハンドブック編集委員長を務める。'55 第一線を退き、同.6 顧問に就任。同.10 取締役、同.11 再び顧問となり、中央研究所名誉所長を拝命した。'56.4 電気学会名誉員を務めた。
この間、'35(S10) 50歳の頃、今後における日立の発展には人材の養成が第一と考え「返仁会」を発足。20年間に30人の博士をつくりたいとの悲願をたて、積極的に学位取得を奨励をし、優れた自主技術の確立のため技術者の育成に努力。'52 その願いが叶い博士が30名に達したのを機に「三十人会」を発足。このとき会員各自が、馬場に替わってそれぞれ3人ずつ新しく博士を育成し、「百人会」へと発展することを誓う。
'53 「返仁会」の名称を「変人会」と変え、会則も制定、馬場が初代会長に就任した。この「変人」の由来は、馬場の「世上才子と学者は自ら異なり、才子は所謂常識の豊富なるを現すが学者は然らず。是等両者の極端なるものを学者側では変人と云い、才子側では粋人と云う。何れも凡俗を脱し居るけれども、高度の発明を為すものは変人以外は期待し難い」との持論による。これより会員は変人と呼称することにした。この呼称には、会員に対して学位に安住せず自己研鑽に励み、高度の発明・技術開発を成し、且つ後進の育成に努める『変人たれ』という励ましの意味も含まれる。なお会社を離れた変人は先生と呼称。馬場初代会長のみ「大変人」と尊敬を込めて呼称された。
しかし、「変人」という呼称は社外の人たちから珍妙に見られ、『日立変人会の皆様』と呼ばれるのは弟子たちに申し訳ないという気持ちになり、'59 「変人会」を「返仁会」に戻した。この「返仁」の「仁」は愛慈悲の心に通じる意義あるもので、「返」には根本にかえり、その恩に報いるという意味を込めている。徳を高め、人に愛され、人に信じられることの大切さを強調し、「空己唯盡孚誠」〔「己(おのれ)を空(むな)しうして唯(ただ)孚誠(ふせい)を盡(つく)す」〕を返仁会活動の心構えとした(現在の会員数は2千名を超えている)。
主な著書は、『発明と発見』(1930)、『水戸学略講』(1934)、『大日本史楠瀬正成伝草稿本解説』(1936)、『牛の口籠』(1941)、『日立製作所の発明発見等の歴史』(1950)、『落穂拾い』(1966)。老衰のため、小平記念東京日立病院にて逝去。享年92歳。