鹿児島出身。1901.12.24(M34)海軍兵学校卒業(29期)。海軍航空発足前より民間飛行学校で操縦練習を続けていた。
1911.4.1(M44)日本初の航空機専用飛行場として所沢飛行場が完成。同月5日に前年に日本国内で初めて飛行機により空を飛んだ徳川好敏陸軍大尉(後に中将:清水徳川家8代当主で男爵)が試験飛行を行った。
同.4.29梅北は第2回飛行演習に参加し、所沢飛行場にて最初の墜落事故を起こす。当時海軍大尉であった梅北はグラーデ単葉機で第1格納庫付近を滑走中に、発動機高回転により急上昇、高度15mより墜落し、頭部を負傷した。
命に別状はなかったが、所沢飛行場での初の飛行事故を起こしたパイロットとして不名誉な記録がついた。
'12.6.26大日本帝国海軍における海軍航空が発足。山路一善大佐(後の中将で「海軍航空の生みの親」と称される)を委員長とする海軍航空術研究委員会が設置された。
この時に、梅北が任命された。その他に任命された人物は、山内四郎中佐(後に中将で横須賀航空隊司令官などになる)、金子養三大尉(後の少将で「日本海軍飛行機の元祖」「海鷲育ての親」と称される)、河野三吉大尉(後に中佐で海軍機初飛行を成功させた人物)、山田忠治大尉、小濱方彦機関大尉、山下誠一機関大尉、中島知久平機関大尉(9-1-2-3:後の中島飛行機の社長)らがいた。
'16(T5)海軍航空隊令という官制ができ、独立航空隊設置の予算案が議会を通過した。同.4.1横須賀に初めて海軍航空隊が誕生し、同時に艦政本部で行っていた航空に関する事項を海軍省の事務局で行うことになった。
海軍飛行場が神奈川県の追浜に設置され、日本海軍航空発祥の地となった。当初はフランスやアメリカ製の水上機ばかりであり、軍艦がイギリス式だった関係で、海軍はイギリスから航空顧問団を招聘した。
'22(T11)世界初の空母「鳳翔」を完成させている。海軍航空の草創期の同期メンバーであった中島知久平は「近い将来、飛行機から魚形水雷を投下して軍艦を撃沈する時代が、必ずやって来る」と語り同僚たちを驚かせた。
航空機の未来を高く評価した中島は、小国日本の戦略としていちはやく大艦巨砲主義を否定し、有力な武器として航空機を位置づけたため、海軍を辞して、自ら飛行機製造会社の中島飛行機を設立した。
≪梅北兼彦の詳細な略歴・軍歴は調査中≫
従5位 勲4等 功5級。享年57歳。