幕末の志士の内田庄司の次男。兄の内田量太郎は伝習第一大隊に所属し頭取として各地を転戦。千代ヶ岡で負傷、亀田新道でも負傷、函館で戦死(享年21歳)。
1868(慶応4)古屋作久左衛門が組織した衝鉾隊(東軍・幕府軍)に、指図役頭取(第二大隊長)を務めていた父と共に15歳で総務付き少年として衝鉾隊士となる。
旧幕府軍(東軍)と官軍(西軍・薩摩藩四番隊、大垣藩、長州藩)との戦いである梁田戦争(やなだせんそう:足利地方:東日本最初の戦い)に従軍。
西軍の奇襲攻撃に対して東軍も勇猛果敢に防戦、次第に東軍は追い込まれ次々と戦死者を出してしまった。その後も五稜郭の戦いまで各地を転戦した。1869(M2.5.18)降伏。
戦後、東京麹町区大手町の大蔵省印刷局に奉職。印刷局技師として部長を務めた。従4位 勲3等。内田家では12世当主。享年71歳。
妻は房。長男の内田壮は東京工業大学名誉教授の応用化学者。孫の内田るり子は国立音楽大学名誉教授の声楽家である(全員同墓に眠る)。
*墓所正面には和型「内田氏墓」と字体も全く同じ墓石が二基並んで建つ。右側の墓石の右面には十二世 内田萬次郎、妻の房(幕臣 根立榮 次女:1970.1.4没 享年103歳)。左面に十三世 内田壮 東京工業大学名誉教授 工学博士と刻む。
*左側の墓石の右面には、十三世室 内田さと子、十三世長女 内田留里子 国立音大名誉教授 文学博士と刻む。また、墓所右側に寝石「内田家之墓」があり、そこには「昭和元年祖先より十一代に至る累代遺骨を小石川區喜運寺より改葬す」と刻む。
更に「内田萬次郎墓誌」と題された碑が建つ。碑には内田万次郎の略歴が刻み、多磨墓域に新たに墓所をつくり葬った旨が刻まれることから、多磨霊園開設当初に建之したことがわかる。
*万次郎の父の内田庄司は函館で降伏後、箱館で会計奉行支配となり、開拓使御用掛や北海道炭鉱鉄道の仕事等に従事し、1903(M36)東京で没している。
*1924.9(T13)大蔵省印刷局を退職した万次郎は、長福寺に「明治戊辰梁田役東軍戦死者追悼碑」を建立した。碑には真下菊五郎、川島為龍、斎藤元次郎、中山金太郎、塚越米太郎の五名が刻まれている。
戊辰戦争慰霊碑や墓碑において、幕府軍の名を刻んだものが少ない中、東軍と幕府軍であることを刻む当碑の歴史的価値は高く、2005.3.24(H17)足利市指定重要文化財(史跡)となった。