山梨県出身。1912.7.20海軍機関学校卒業(21期)。同期に別府良三(後に中将:19-1-12)らがいた。 少尉候補生として津軽、摂津乗組。'13.12.1(T2)少尉となり、翌年、艦本艤装員、榛名乗組。
'15中尉となり、翌年より機関校普通科学生、潜水艇隊附。'17海軍大学選科学生、翌年大尉となり、'20 佐工廠造兵部部員、検査官も兼ねる。
'23,10,1造兵監督官として英国出張、'24少佐になり、'25.2.14命帰朝。同.8.1造兵監督官・技研電気研究部員。'28(S3)中佐、'32.12.1大佐、'34.11.15軍令部出仕、'38.11.15少将と累進し、艦本第3部長に就任。
'41.10.15舞鶴工廠長となり、太平洋戦争勃発。'42.11.1中将。'44.3.10軍令部出仕、同.3.19待命、同.3.20予備となった。軍を退き、同.4.10沖電気社長に就任。同.11.1技研研究業務嘱託。
沖電気は軍需会社法により軍需会社に指定された。軍需会社法は軍による工場の直接的な管理を可能にするもので、各企業に置かれた生産責任者の人事に対しても政府の介入を認めていた。
軍需会社法による指定を受ける以前、沖電気では生産活動を円滑に進めるために、軍部との折衝役して押田専務を置き、海軍艦政本部から浅野一郎会長の常勤を指示してきた。
それまで社長制をとらず、会長が社業を統括してきたが、生産責任者である社長を置く必要性に迫られ、浅野会長は、当時、舞鶴海軍工廠長を務めていた小沢の沖電気への入社を要望したとされる。
'45米軍の本土空襲が激しくなり、全国の軍需会社で工場秘匿名が実施され、沖電気は「皇国第6551工場」と呼ばれるようになった。終戦後の11月に退任。後任の社長は楊井勇三(20-1-13)。享年86歳。