広島県世羅郡三川村久恵(甲山町→世羅町)出身。旧姓は熊田。農家の6人兄弟の末っ子として生まれる。産まれた6月が農繁期で「忙しい時に『困った児』」が訛って「コタカ」と名付けられたという。出生届も提出が遅れ11月20日にやっと籍が入った。現在、大妻学院の学校記念日は11月20日である。3歳で父に死別し気丈な母に育てられるが、14歳で母とも死別。
1901(M34)広島県立高等女学校卒業。小学校訓導を経て上京。叔父(父の弟の阿久澤家)宅へ寄宿させてもらい、和洋裁縫女学校に入学。卒業後、東京府の教員養成所、神奈川女子師範学校小学校教員養成所に学び、卒業後は鎌倉尋常小学校訓導となる。
'07宮内省技師官をしていた大妻良馬(同墓)と結婚(24歳)。軍人の家庭の仕立物を縫わせてもらい自信となり、'08夫が山階宮家勤めとなり宮家の中にある家に移ると、大妻学院の前身となる縫製・手芸の私塾「技芸教授所」の看板を掲げ開設した。当初は近所の子供を集めた10数人であったが、教え方が上手いと評判となり、加えて女子教育普及の波にも乗り生徒数が増加。'16(T5)大妻技芸伝習所を設立。三越主催の学校展覧会に出品、婦人記者の小橋三四子に取り上げられコタカの名は広まった。
'17麹町に私立大妻技芸学校を開校して手芸・裁縫を教授。'19大妻実科高等女学校に発展。後に高等技芸科、高等家政科を増設。夫の良馬も校主として経営・事務等を担当し、'23関東大震災で校舎が焼失した際も直ちに再建に着手した。'27〜'32(S2-S7)頃に和服の裁ち方、縫い方、手芸などを分かりやすく図で説明した本を次々と出版し、どれもベストセラーとなった。また五尺帯、半反でできる服やツーピースの着物、風呂敷を三角にした戦時袋などを考案して評判を呼ぶ。'29夫の良馬が急性肺炎にて逝去。子宝に恵まれなかったこともあり、学校経営に情熱を燃やす。
'37世界教育大会が東京帝国大学で開催され、女子手工芸教育界を代表して発表。'42(S17)大妻女子専門学校と改称し、良妻賢母教育を行なう。戦時中は、国粋主義的な婦人団体の幹部として活動し、戦意昂揚の講演などを行ったため、戦後は公職追放・教職追放令となり学校を追われた。'49解除後は校長に復帰。同年、大妻女子大学に昇格し学長。家政学部に被服・食物・家庭理学の各科を設置。中学校から大学までの大妻学院に発展させた。
教育方針は和装を中心に良妻賢母の養成。家事評論家としても活躍し、文部省認定の裁縫や手芸に関する教科書を手掛けた。'54藍綬褒章受章。'62自叙伝「ごもくめし」を刊行。'64第1回生存者叙勲で女子教育者としては初めて勲3等宝冠章を受章した。生涯にわたり女子教育に尽し逝去。享年85歳。従4位勲2等瑞宝章追贈。
<コンサイス日本人名事典> <日本女性人名辞典> <高知県人名事典など>
【コタカ先生の言葉】
『美しい花を咲かせると思うな。雑草になれ。そして、強くたくましく生きよ』
『お互いにほめ合うこと、話し上手より聞き上手、常に心の修養につとめよ』
『強く正しくにこやかに、上見て学び下見て暮らせ』
『理想は高遠に、実行は足元から』
『「憂きことの なおこの上に 積もれかし 限りある身の 力ためさん」 若い時の苦労は買ってでもしなさいね』
『失敗すればそれが一つの体験になります。一番大切なことは、それにくじけないだけの勇気が欲しい。(若い人たちへ)』
『仕事に追われるな、仕事を追え』
『「恥を知れ」とは他人に対して非難するためのことばでなく、自分自身の心に向かって発することばである』
『人は大きく 己は小さく 心は丸く 気は長く 腹立てず』
*墓所には正面和型二墓、右側「大妻コタカ墓」、左側「大妻良馬墓」。コタカの墓石右面に略歴が刻む。墓石略歴には生誕日を11月20日と刻む。
*郷里の三川村久恵(現在の世羅町)の伊尾地区に生家があったが、同地区に三川ダム((49着工・'60竣工)が建設されたため水没することになった。そのため大妻コタカの生家が「神農湖」湖畔に移築保存され、敷地内に大妻コタカの銅像が建立されている。また世羅町から名誉町民の称号を与えられている。
*大妻コタカや大妻学院に関わる資料を教育・研究のために、2007(H19)大妻女子大学生活科学資料館が設立され、2012東京都から指定を受け「大妻女子大学博物館」(東京都千代田区三番町12 図書館棟地下1階)と館名を変更して現在に至る。
第346回 大妻学院 大妻女子大学 創立者 大妻コタカ お墓ツアー
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