茨城県真壁郡下館町(筑西市)出身。本名は孝(こう)。医者の大塚徳次郎(同墓)の長男。1898.4(M31)6歳のとき、母方の大叔父である江橋長次郎のもとに入門し、為我流(いがりゅう)柔術の修業を始める。1905 中山辰三郎から剣術とともに神道揚心流柔術を学ぶ。'11 早稲田大学専門部商業学科に入り、諸流柔術の修行を続け、柔術当身憲法の研究をなす。'21.6.1(T10)神道揚心流柔術の免許皆伝を許され、同流4世を継承。
'22 上京中の琉球空手家の船越義珍のもとを訪れ沖縄より伝わった空手(唐手)修業を開始。翌年の関東大震災で道場生が一人もいなくなったが、大塚は通い一対一の指導を受けるなどした。入門して一年半余りで船越が知っている形の大半を習得する。
船越からは形のみの修業であり、柔術から空手に入った大塚にとって乱取りがないことに不満を感じたため、沖縄で組手を学ぼうと考えた。しかし、'24.5 宮内省済寧館道場で空手の演武をする事が決まり、沖縄行きを辞めて、演武会用に、自ら学んできた柔術の技術や様式を取り入れて組手形、真剣自刃捕、短刀捕などを制定した。これが本土における約束組手の誕生となる。この時大塚が創作した約束組手は、後の和道流、松濤館流の組手の原型となった。
'28(S3)上京した琉球空手家の摩文仁賢和に師事。'29 本部朝基に技術を学ぶ機会を持ち、独自の空手を完成させていった。形だけでなく組手も重視する本部の空手観に影響を受け、益々組手試合の研究を始める。このように約束組手の考案、組手の体系化を整え、競技試合の下地を作った。その後も改良を行い、近代空手の基礎を築いた。同年(1929)日本古武道振興会を発足。
'31 道場を借りていた久保義八郎から柳生新陰流を学ぶ。その剣術の体捌きも、和道流の体捌きに大いに活かされている。'34 会を組織し正式に大日本空手道振興倶楽部の道場を開設(後の全日本空手道連盟和道会・和道流空手道連盟)。'38 大日本武徳会から錬士号を授与される。また自らの空手を神州和道流空手術(翌年、和道流空手術に改名)とした。
戦後は警察庁の逮捕術制定委員を務める。'59 旧 全日本空手道連盟(錬武会)発足の際には顧問として名を連ねる。'66 空手の普及の功により勲5等に叙せられ双光旭日章を受章。'69 全日本空手道連盟発足に伴い副会長に就任し、空手普及に尽力した。'72.10 国際武道連盟総裁の東久邇稔彦より空手道初代名人・十段位を贈られる。'81.12.20 和道流宗家を息子の次郎に譲る。その一か月後に逝去。享年89歳。
日本の古流武術と沖縄の空手を融合させた和道流空手道は、その規模から四大流派のひとつと言われるまでに成長し、世界中に広がっている。
<和道流八十年史> <墓誌より> <内田弘二様より情報提供>
*墓石は和型「大塚家之墓」、裏面「昭和四十四年八月 大塚博紀 建之」。右側の墓誌碑には流祖の道歌「武の道は ただあら事と な思ひそ 和の道究め 和を求む道 和道流 博紀」と刻み、裏面は「初代空手道名人位十段 和道流流祖宗家 大塚博紀」という題字に武歴が刻む。左側に墓誌が建ち、父で医者の大塚徳次郎(M43.12.12歿・54才)から刻む。初代 大塚博紀は「大塚孝(博紀)」とあり90才と刻む。妻はトキ(S54.6.11歿・80才)。二代目 大塚博紀は「大塚次郎(博紀)」とあり81才と刻む。二代目の妻は愛子(H27.1.25歿・83才)。
第180回 和道流空手道 開祖 古流武術と沖縄の唐手を融合 大塚博紀 お墓ツアー
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