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おおが きょうじ

大賀彊二

おおが きょうじ

1875.3.15(明治8)〜 1942.7.22(昭和17)

明治・大正・昭和期の実業家(和光堂)、社会事業家

埋葬場所: 13区 1種 6側 1番

 東京出身。大賀鶴太郎(同墓)の3男として生まれる。1903(M36)分家し一家を創立する。
 1898(M31)中央大学卒業。卒業後、林業関係の役所の職員として働く。傍ら、トルストイの人道主義に深く共鳴し、当時の日本の課題であった乳幼児死亡率の高さ(死亡率は1000人あたり150〜160人。現在は1000人あたり2人程度)を低下させたいと志を高く持った。自身も幼児期に貧困生活を経験してきたこともあり、まずは赤ちゃんの栄養不足を解消したいと考え、大賀化学研究所 兼 工場を設立した。
 当時の日本にはまだ粉ミルク製品は存在しておらず、母乳に代わるものはもっぱら糖類を加えた牛乳が利用されていた。一般家庭に冷蔵庫もなかった時代であったため、牛乳を冷蔵保存することもできず、夏場などは牛乳がすぐに傷んでしまった。販売業者も牛乳に関する知識が乏しく、傷んだ牛乳を飲ませたことが原因で赤ちゃんが命を落とすケースも多々あった。大賀はどうにかして牛乳の品質を一定に保つ方法はないかと考え研究を行った。ある日、たまたま実験器具に数滴の牛乳が固まり乾燥している状態を確認。これを見て牛乳の粉末化を思いついた。粉ミルクは、1802(享和2)ロシア人医師が考え付いたのが最初であるが、日本における粉ミルクの最初の発見であった。試行錯誤の末、国産第1号の育児用ミルクを完成させる。ドイツ語の「キンド」(子ども)と英語の「ミール」(食べ物)から「キノミール」と名付け、'17.3(T6)日本で初めて商品化し和光堂薬局より発売。大変な反響を呼んだ。
 同じ時期に乳児用調製粉乳(ベビーパウダー)の国産化に成功した東京帝国大学教授の弘田長を知人の紹介で知る。弘田は乳児用調製粉乳をラテン語で「乾かす」を意味する「シッカチオ」に由来し「シッカロール」と名付け、1906(M39)和光堂薬局を創業して販売を開始した。しかし、弘田は学者であり経営がうまくいっていなかった。'14(T3)大賀は和光堂薬局に入り再建に尽力する決心をする。
 和光堂薬局の創業者の弘田は小児科の研究者であり、当時はまだ高かった幼児死亡率を下げることを目的に、医療先進国のドイツから育児製品の輸入販売を始める。咳止めや栄養剤は輸入できたが、ほとんどの乳幼児がなやまされているあせもを予防する薬がなく、同じ東京帝国大学薬学科教授の丹波敬三(2-1-6-15)とともに、古くから伝わる民間療法に自分たちが持つドイツ医学の知識を組み合わせ、あせもやただれに効果的な処方を独力で作りあげた。それが国産初の乳児用調製粉乳であるベビーパウダー「シッカロール」である。直径5センチほどの小さな缶に入れて10銭で販売。蓋には金太郎の腹巻をした子供が「シッカロール」の缶を持っている絵柄であった。
 子供の命を救いたいという同じ志しを持っていた大賀は、弘田から和光堂薬局の経営を引き継いだ。そして「シッカロール」をヒット商品に育て上げていく。和光堂薬局を株式会社和光堂と改組して初代社長に就任。
 初期の「シッカロール」は薬局の片隅にあった4畳半の小部屋で手作りされていたが、間もなく工場生産へと移行し、'27(S2)自動充てん包装機を導入。5年後には東京に工場を新設し、早くも大量生産へと乗り出した。なお、大賀彊二没後の戦後も「シッカロール」の生産体制は着々と整備され、'63 東京工場内に「シッカロール」専用工場を建設。待望の完全オートメーション化を実現している。
 大賀は販売面でも手腕を発揮している。大正時代に、お正月の初荷を兼ねた「シッカロール」の特売一斉出荷を開始した。馬に引かせた荷車に木箱詰めの「シッカロール」を満載し、朝4時に運送会社の倉庫を出発。6時には東京中の問屋へ届けたという。これは年間を通じて商品を安定供給することと、店舗における自社の製品の販売力を高める効果があった。大正末期には輸送手段がトラックに変更している。毎年行われる春の特売一斉出荷は、会社を挙げての一大イベントになっていった。なお小金井に武蔵野農場をつくり牛乳の生産直売農場も開設している。
 ベビーパウダーのパイオニアである「シッカロール」を日本に定着、普及させ、乳幼児だけでなく大人にも愛用されシェアも広がった。'37 和光堂は栄養のある衛生的な食べ物を与えたいと、日本で最初の離乳食であるベビーフード「グリスメール」も発売している。
 また大賀はこの間、'27(S2)親や乳幼児の保護と教育を行うために、私財を投じて育嬰(いくじ)協会を設立した。最初の事業として、子育てや栄養管理に関する知識の普及や健康相談を行う小児保健所を日本で初めて開設させている。大久保直穆博士や日本赤十字社大阪支部病院、大阪府知事を会長として設立した大阪乳幼児保護協会と協力し、日本初の小児保健所が大阪で開設。経営に必要な費用は全額、大賀の私財から寄付した。それ故に、保健所は「大賀小児保健所」と命名された。小児保健所は、'29 横浜、'32 浅草にも開設された。
 '28 東京の淀橋に保育園・愛生園を開き園長に就任。低所得家庭の子どもを中心に保育を開始した。週1回乳幼児検診日を設け、園児だけでなく近隣の子ども達の健康相談や診療も行った。また母親への育児教育を目的とした育児参考館も開設し無料で一般に公開。地方の母親のために各地で育児展覧会や講演会も行い、当時はあまり理解されていなかった妊娠・出産のメカニズムや注意事項、栄養指導など、知識の普及を行う。この活動は厚生省から育嬰協会を日本で唯一の育児支援の機関として認められる。厚生省や各都道府県が活動を見習い、育児相談を主宰するようになり、育嬰協会はそれに協力していった。
 '33 東京に淀橋産育院を開設。さらに、'36 多額の寄付を行い、淀橋産育院の規模の拡大に取り組む。産院はもちろん、小児科病棟を拡張するなど、院内の設備を整えるとともに、東京帝国大学医学部と連携し、医療スタッフの充実も図った。名前も育嬰協会病院と改め、産院のほかに乳児院を設置し、乳児の保育事業にも力を注いだ。所得が少なく医療費の支払いが難しい患者には、最低限の実費だけで診療を行い、場合によっては無料で治療を行った。開設の翌年には、日中戦争が勃発し、病院器材の欠乏や物価の高騰などの困難もあったが、その都度、大賀の個人出資や和光堂からの寄付で乗り越えた。
 日本国内全体の乳幼児の幸せを望み、印刷物での育児知識の啓蒙と普及を重視するため出版事業にも取り組む。育嬰協会の設立当初から機関誌『育嬰』を発行したほか、『母となる人ヘ』、『新式育児日記』などの書籍を出版した。'42 育嬰叢書として第1集『愛児の躾と叱り方』、第2集『幼児の科学教育とその指導』を発行した。享年67歳。

<wakodo 和光堂「初代社長はメセナを推進」>
<ニッポン・ロングセラー考「シッカロール」2010.9月号 vol.88 [NTTコムウェア]>
<人事興信録>


墓所

*墓石前面「大賀家之墓」、裏面「大正五年五月 大賀彊二 建之」。多磨霊園開園前の建立墓石であるため、都内寺院から改葬されたものと推察する。墓所右側に墓誌が建つ。大賀彊二の父の大賀鶴太郎(天保3.11.11-M15.5.7)、母の與志(天保10.5.17-M44.1.14)から刻みが始まり、次に大賀彊二が刻む。俗名と生没年月日が刻む。妻は すゑ子(M15.7.26-S42.11.5)。すゑ子は東京出身で旧姓は川北。長男は大賀弘(M43.8.6-S11.5.6)。二男は大賀喬(T6.3.19-S61.6.9)。喬の長男の大賀泉(R3.11.10歿)も眠る。

*和光堂創業者の弘田長(ひろた つかさ:1859-1928.11.27)は、土佐国幡多郡中村町(高知県中村市)出身。東京帝国大学小児学教室の初代教授であり、幼少時の昭和天皇の侍医を務めた。国内で初めて小児科を作り、日本小児科学会を創立。1906(M39)和光堂薬局を東京神田に創業。1914(T3)和光堂薬局(和光堂)の再建を大賀に託す。墓所は雑司ヶ谷霊園。



第501回 乳幼児の幸せに人生を捧げたパイオニア
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