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おの とくさぶろう

小野徳三郎

おの とくさぶろう

1882.5.19(明治15)〜 1956.5.1(昭和31)

明治・大正・昭和期の海軍軍人(中将)、基督教伝道者

埋葬場所: 10区 1種 4側

 三重県亀山出身。1899(M32)日本基督教会名古屋教会で洗礼を受ける。
 1905.3.31(M38)海軍機関学校卒業(13期)し、候補生として朝日乗組、同.12.12厳島乗組。'06.1.26海軍機関少尉となり、'07.8.5第6駆逐隊附を経て、同.9.28中尉となり、'08.12.10隅田乗組。
 '09.3.5海軍大学校選科学生となった時に、植村正久(1-1-1-8)の一番町教会(富士見町教会)に入会する。同.10.11大尉に上がり、'11.3.23横須賀鎮守府附、同.4.1海軍工機学校教官 兼 分隊長、同.10.19海軍砲術学校教官も兼務した。'14.12.1(T3)佐世保海軍工廠部員、同工廠造機部部員で活動していた際には、プライベートでは佐世保教会設立にも関与した。'15.12.13少佐に昇進し、'16.1.28検査官も兼務した。
 '18.6.1フランス駐在、同.12.13造船監督官を兼務し、'19.12.1中佐、'21.2.11帰朝。同.3.7呉工廠造機部部員に着任。プライベートでは広島県呉の教会の長老として約8年間仕えた。'23.12.1大佐に進級し、広島工廠機関研究部長に就任した。
 '28.12.10(S3)少将に昇進し、横須賀工廠造機部長に着任。'30プライベートでは富士見町教会員になる。'31.12.1広島工廠長、次いで、'32.11.15海軍工機学校長となった。'33.11.15中将に累進。'34.11.15軍令部出仕、'35.3.25待命、同.3.30予備役となる。
 '43青山学院のストライキ事件で引責辞任した笹本順造の後任として、青山学院第8代院長に就任する。太平洋戦争中の軍事教練の教官の前で戦争批判をしたが、海軍中将の肩書きのため免職を免れた。しかし、'45終戦とともに院長の職を辞した。戦後はキリスト教印刷株式会社を設立し、聖書の印刷と普及に尽力した。享年73歳。

<帝国海軍提督総覧>
<日本海軍将官総覧>
<日本キリスト教歴史大事典など>


*墓石は和型「小野家之墓」。裏面「昭和十三年十二月 小野徳三郎 建之」と刻む。墓誌はない。



第450回 クリスチャン軍人 戦争中に戦争批判 小野徳三郎 お墓ツアー


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