メイン » » » 岡田貫之
おかだ つらゆき

岡田貫之

おかだ つらゆき

1853.12.6(嘉永6.11.6)〜 1918.11.2(大正7)

明治期の陸軍軍人(少将)

埋葬場所: 9区 1種 17側 22番

 因幡國鳥取外吉方町(鳥取県鳥取市吉方町)出身。幼名は源一。先祖は美濃國安八郡藪田村の出で藪田将義と云い池田信輝・輝政に仕え、池田光仲が鳥取に封ぜられるやこれに従い、以来子孫は鳥取藩士であった。13代目の藪田将貫の二男が貫之で安政年間に故ありて藪田氏は断絶するが万延年間に岡田氏を名のるにいたった。
 1871(M4)東京に出て、林欽次の塾に入り佛学・数学を修めた。1872.7陸軍教導団生徒となり、1874.3砲兵科の学術を終え兵学寮に入校し、同.10陸軍少尉試補、東京鎮台砲兵第1大隊附となった。 1875.1.27少尉となり、翌年、輜重(しちょう)兵科に転じた。東京鎮台輜重兵第2小隊附、大阪鎮台輜重兵第4小隊附を経て、1877西南戦争が始まるや征討軍団輜重部附を命ぜられ出征した。
 1880.3仙台鎮台輜重兵第2小隊長心得を経て、1882.2大尉となり、同鎮台輜重兵第2小隊長、1885.1輜重兵第1大隊第1中隊長に補せられる。1886.8輜重兵下士学術検査委員、同.10輸送試験委員、1887.3騎兵局課員、同.6騎兵局第2課長、同.10各兵内務書審査委員、1888.3拂下馬匹評価委員などを歴任した。
 1889.11少佐になり、輜重兵第3大隊長、1890.6将校飼養馬匹事務取扱委員長、1891.9小機動演習傭役馬役検査委員長を任ぜられた。また戦時用の諸種の器具の審査委員を務め、また自らも行李(こうり)など諸種の器具を改良した。輸送駄鞍の改良はその後の輸送に多大な貢献を成したとされる。
 1889.11.2第3師団輜重兵第3大隊長に就任し日清戦争に出征。朝鮮国仁川に上陸後、軍に従い各地に軍需品輸送の指揮を執る伏木丸輸送指揮官をつとめ、野戦師団の後顧の憂いをなからしめた。この戦功により功四級に叙された。 1899.10.21大佐に昇進し、同.10.28輜重兵監に就任。1904.9.21(M37)少将に昇進した。日露戦争中であり、後方勤務研究の為に満州に派遣されている。'06.2.7予備役に編入した。従4位勲3等功4級。享年64歳。

<帝国陸軍将軍総覧>
<講談社日本人名大辞典>
<明治過去長 物故人名辞典など>


墓所

*墓所には三基建つ。真ん中「陸軍少将 従四位 勲二等 功四級 岡田貫之 墓」、裏面「大正七年十一月二日歿 享年六十八歳」。右「陸軍工兵大尉 正七位 勲六等 岡田三郎 墓」裏面に没年月日や殉職の文字等が刻む。貫之の三男。左「岡田家累代之墓」、裏面は「昭和十二年三月四日 岡田東雄 建之」と、墓誌を兼ね岡田東雄(M19.10-)、妻、娘が刻む。

*岡田貫之の妻は美智。長男は岡田東雄二男の實の刻みはない。


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・あ | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。