因幡國鳥取外吉方町(鳥取県鳥取市吉方町)出身。幼名は源一。先祖は美濃國安八郡藪田村の出で藪田将義と云い池田信輝・輝政に仕え、池田光仲が鳥取に封ぜられるやこれに従い、以来子孫は鳥取藩士であった。13代目の藪田将貫の二男が貫之で安政年間に故ありて藪田氏は断絶するが万延年間に岡田氏を名のるにいたった。
1871(M4)東京に出て、林欽次の塾に入り佛学・数学を修めた。1872.7陸軍教導団生徒となり、1874.3砲兵科の学術を終え兵学寮に入校し、同.10陸軍少尉試補、東京鎮台砲兵第1大隊附となった。
1875.1.27少尉となり、翌年、輜重(しちょう)兵科に転じた。東京鎮台輜重兵第2小隊附、大阪鎮台輜重兵第4小隊附を経て、1877西南戦争が始まるや征討軍団輜重部附を命ぜられ出征した。
1880.3仙台鎮台輜重兵第2小隊長心得を経て、1882.2大尉となり、同鎮台輜重兵第2小隊長、1885.1輜重兵第1大隊第1中隊長に補せられる。1886.8輜重兵下士学術検査委員、同.10輸送試験委員、1887.3騎兵局課員、同.6騎兵局第2課長、同.10各兵内務書審査委員、1888.3拂下馬匹評価委員などを歴任した。
1889.11少佐になり、輜重兵第3大隊長、1890.6将校飼養馬匹事務取扱委員長、1891.9小機動演習傭役馬役検査委員長を任ぜられた。また戦時用の諸種の器具の審査委員を務め、また自らも行李(こうり)など諸種の器具を改良した。輸送駄鞍の改良はその後の輸送に多大な貢献を成したとされる。
1889.11.2第3師団輜重兵第3大隊長に就任し日清戦争に出征。朝鮮国仁川に上陸後、軍に従い各地に軍需品輸送の指揮を執る伏木丸輸送指揮官をつとめ、野戦師団の後顧の憂いをなからしめた。この戦功により功四級に叙された。
1899.10.21大佐に昇進し、同.10.28輜重兵監に就任。1904.9.21(M37)少将に昇進した。日露戦争中であり、後方勤務研究の為に満州に派遣されている。'06.2.7予備役に編入した。従4位勲3等功4級。享年64歳。