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おぐら しょうたろう

小倉庄太郎

おぐら しょうたろう

1865(慶應1)〜 1946.9(昭和2)

明治・大正期の貿易商、日本初のゴルファー

埋葬場所: 10区 1種 4側

 岐阜県大垣出身。大垣藩士である小倉周一の長男。
 ドイツ留学の経歴を持ち、神戸外国人居留地に設立されたデラカンプ商会に入り2代目番となる。デラカンプ商会は神戸港から薬品・織物・染め物の輸入、花莚・段通・白蝋の輸出を行った日本国外の企業の代理店である貿易会社。神戸の六甲山は神戸外国人居留者たちで開拓され、日本人で初めて六甲山に別荘をもった人物でもある。
 1889(M32)ドイツ人のマリア・ニッチェ(1940.8歿 同墓)と結婚。1894両親が亡くなり遺言により3歳の妹の小倉末子(同墓)を引き取り、神戸に呼び寄せ育てた。妻のマリアと末子の相性が良く、また末子のピアノの才能を見出し英才教育を行った。
 1903.5.24イギリス人貿易商A.H.グルームが私財を投じ、六甲山に日本初のゴルフ場をつくった。2年後に完成し神戸ゴルフ倶楽部が誕生。'05庄太郎は会員となり、外国人たちとゴルフを楽しんだ。これが『日本のゴルフ史』としては、日本人として最初のゴルファーとされている。また、15歳の末子も連れていき、ピアノ以外の楽しみを経験させるために強制的に一緒にゴルフをしていたことで、末子が日本で最初の婦人ゴルファーとして歴史に刻まれている。
 '06末子があまりにもピアノが好きであったため、庄太郎は神戸女学院音楽科への進学を奨め入学させる。卒業後、'11末子は東京音楽学校(東京藝術大学)に入学したが、マリアの進言で留学を奨められ、半年後に中退し、マリアの母国のドイツ・ベルリンに渡る。その際、マリアも通訳として同行することを庄太郎も許可をした。以降の末子は、'12.4ベルリン王立音楽院ピアノ科への入学、'15アメリカ・シカゴのメトロポリタン音楽学校から招聘されピアノ科の教授に就任、'16凱旋帰国するまで、末子とマリアは共に行動をした。
 庄太郎は神戸に留まっていたが、'14(T3)第一次世界大戦が勃発し日本がドイツに宣戦布告をして国交断絶すると、デラカンプ商会は商業活動を停止させられ、建物は押収されてしまった。押収された財産の7割ほどは終戦後返還されたものの、ドイツ本国が激しいインフレーションに見舞われた影響からデラカンプ商会の経営状態は悪化し、'18解散を余儀なくされた。この間、'16末子とマリアが帰国し、末子が母校の東京音楽学校から講師として招聘を受けたことに合わせて、庄太郎もデラカンプ商会から身を引き上京したと推測する。以降上京後の足取りは不明であるが東京に住を置き、マリアと末子と三人で暮らした。


墓所 墓誌

*墓石は和型「小倉家之墓」。裏面は「昭和十六年九月 小倉 末 建之」と刻む。右面が墓誌となっている。墓誌には小倉マリアニッチェ、小倉庄太郎、小倉正純(H2.12.22歿)の名が刻む。墓石の右側に「小倉末子先生の碑」が建つ。


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