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おぐら すえこ

小倉末子

おぐら すえこ

1891.2(明治24)〜 1944.9.25(昭和19)

大正・昭和期のピアニスト

埋葬場所: 10区 1種 4側

 東京牛込出身。大垣藩士である小倉周一の三女として生まれる。戸籍上は「小倉末」。両親を早くに亡くし、遺言により3歳の時に兄の小倉庄太郎(同墓)家に引き取られ神戸にて育てられる。
 小倉庄太郎はデラカンプ商会に入り2代目番で神戸港からの輸出入する貿易商として財を成した人物である。妻はドイツ人のマリア・ニッチェ(同墓)。義姉マリアとの相性が良く、マリアが母のように養育をした。幼稚園の時は絵が好きで、ピアノの絵を教えてもらったことでピアノの記号まで覚えてしまい、ピアノの手ほどきをすると小学校入学時には基盤の位置まで覚えてしまい楽譜から目を離さず弾けるようになったという。マリアは末子のピアノの才能を見出し、8歳からピアノの英才教育を行った。12歳の時にピアノが好きすぎて、兄と姉はピアノの部屋に鍵をかけて入れないようにしていたというエピソードがある。
 1905(M38)兄が日本初のゴルフ場の神戸ゴルフ倶楽部の会員となり、外国人たちとゴルフを始めた。またピアノ以外の経験をさせるために15歳の末子も連れていき、強制的に一緒にゴルフをしていた。これが『日本のゴルフ史』としては、兄の小倉庄太郎が日本人としての最初のゴルファーであり、末子が日本で最初の婦人ゴルファーとして歴史に刻まれている。
 1906兄の奨めで神戸女学院音楽科に進学。アメリカ・オバーリン音楽院出身のエリザベス・タレーに師事。同級生がみんな着物である中、末子は洋服を着て学校に通っていたという。1910.3同校音楽部を卒業。'11東京音楽学校(東京藝術大学)に入学したが、マリアの進言で留学を奨められ、半年後に中退し、マリアの母国のドイツ・ベルリンに渡る。その際、マリアも通訳として同行。'12.4ベルリン王立音楽院ピアノ科に合格し、カール・ハインリヒ・バルトに師事。幼少時代からドイツ人の義姉のマリアから、国際教育や文化・マナーを学び、自然と身に着けてきたことが、外国人の中でも臆することなく能力に磨きをかけることができた。
 '14(T3)第一次世界大戦が勃発し、日本とドイツが国交断絶となり、やむなくドイツからアメリカ・ニューヨークに渡る。コンサートに出演して激賞され、「ニューヨーク・タイムズ」でも紹介され評判となるなど、日本人女性として初めて国際的ピアニストと認められる。'15シカゴのメトロポリタン音楽学校から招聘され、ピアノ科の教授に就任した。なお渡欧渡米とも義姉のマリアが同行し続けている。
 '16凱旋帰国し、25歳の若さで母校の東京音楽学校の講師に迎えられ、翌年は助教授を飛び越え同校教授となった。以降、四半世紀以上にわたって演奏と教育の第一線で活躍し、日本の音楽史に多大な貢献をした。編著に『新撰ピアノ教則本』『ピアノ小曲集』などがある。'37勲4等瑞宝章。
 この間、大正時代末期に国内でジャズが流行し、ラジオ放送開始により、大衆文化が花開くとピアノもそのブームの一部として受け容れられ、末子も職業的音楽家として演奏旅行を行った。朝鮮演奏旅行など遠方にも赴き、その際も義姉のマリアが同行して陰でサポートをしている。25歳の時に結婚話も出たが、マリアは伝統的な考えの持ち主で、独身で演奏活動を続けるか、結婚して家庭に入るかの二者択一の道しかなく、末子は前者をとることになる。
 '40.8(S15)義姉のマリアが亡くなる。翌年より太平洋戦争が勃発。'44(S19)長年勤めた東京音楽学校を退職。以後、自宅で生徒を教えていたが、不眠症で睡眠薬の飲み過ぎが原因で急逝。享年53歳。その背景には、太平洋戦争中のためピアノ教育ができなくなっただけではなく、ピアノを弾くことさえも禁止され、更にはピアノを潜水艦や戦闘機の音を聞き分けるため(兵士が和音を聞き分けるられるようにするため)の「音感教育」を訓練する道具として使われ関わらされたことが原因ではないかと戦後推測されている。なお、没後、従3位勲3等瑞宝章追贈。

<日本女性人名辞典>
<20世紀日本人名事典>
<100年前の卒業生:世界が認めた最初の日本人ピアニスト>
<旅する女性ピアニスト〜小倉末子の朝鮮演奏旅行〜 津上智実など>


墓所 墓誌

*墓石は和型「小倉家之墓」。裏面は「昭和十六年九月 小倉 末 建之」と刻む。右面が墓誌となっている。墓石の右側に「小倉末子先生の碑」が建ち、略歴が刻む。


【小倉末子先生の碑】上部は楽譜音符が刻む
 恩師小倉末子先生は一八九一年二月東京牛込に生れ。幼時よりピアノに秀いで神戸女学院を経て、一九一一年東京音楽学校に入学後、今校を中退、ベルリン王立音楽学校に入学。ピアノをハインリッヒ・バルト博士に師事。その技を磨くこと三年。一九一四年ドイツより渡米、シカゴに於て教鞭をとられた。一九一六年帰国。母校東京音楽学校に招聘せられ、翌年教授となり、子弟の指導に、又、宮中に於ける御前演奏をはじめ、本邦随一の女流ピアニストとしてめざましく活躍され、我国の音楽界に新風を吹き込まれた貴重な存在であった。
 先生の藝術は繊細清澄、その比をみず、その容姿は端麗にして犯し難き気品を具えられた。惜しい哉、一九四四年九月東京赤坂にて永眠せらる。生前の勲功を嘉せられ、従三位勲三等瑞宝章を授けられた。
 本日先生の廿年祭に当り門丁生相寄り追慕の情に堪えず、その藝術功績を称え、永く後世に伝うべく、ここに累歴を記し奉る。
  一九六四年九月二十五日  薔薇會

※小倉末子の出身地を多くの人名辞典は「岐阜県大垣」としているが、墓誌には『東京牛込』と刻む。


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