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おあき りょうさく

緒明亮乍

おあき りょうさく

1915.3.21(大正4)〜 1974.6.19(昭和49)

昭和期の海軍技術少佐、潜水艦設計者
(蛟竜・くろしお・うずしお)、
潜水艦設計の第一人者

埋葬場所: 11区 1種 6側 22番

 祖父は戸田村(静岡県沼津市)出身の緒明菊三郎(墓所は池上本門寺)、父は菊三郎の長男の緒明豊三郎(雅号は白舸:同墓)、長男として生まれる。 1937(S12)東京帝国大学卒業。技術大尉として海軍艦政本部第四部第五班(潜水艦計画担当)で特殊潜航艇、甲標的丁型「蛟龍」を担当した。'44 秋に舞鶴海軍工廠に転勤しそこで敗戦を迎えた。最終階級は海軍技術少佐。
 戦後、'46.9 日本鋼管清水造船所に入り、船舶設計部計画課長に就いた。'49 牧野茂(24-1-8)が経営する国際船舶工務所に転職し、北海道大学の潜水探測機「くろしお」の設計指導を行う。「くろしお」は北海道大学水産学部の井上直一が、雪の結晶の研究で名高い中谷宇吉郎からの潜水調査のアドバイスをきっかけに潜水装置保有の構想を提唱。中谷宇吉郎は戦後の困難な時代にあって「水産学を近代科学にし立てあげるためには、まず海に潜って、魚の生態を見るのが第一歩である」という信念のもとに構想が動き出し、前後して渋沢敬三ら政財界の大物らで後援会を組織し約600万円の建造費が調達された。旧日本海軍で潜水艦設計を手掛けていた緒明に声がかかり設計を手伝うことになる。
 '51.8.17(S26)午前11時、潜水探測機「くろしお」は相模湾網代沖 4キロの地点で産湯につかる。最初の栄誉をになった搭乗者は2羽のセキセイインコであった。インコが無事帰還したのを受けて、「くろしお」の設計者である緒明らが 2番目に潜行して安全や装置作動等を確認し、中谷教授が第3潜行を行った。二日後、同.8.19 北海道大学科学調査用潜水艇「くろしお号」(テザー式)が完成。緒明、井上直一教授、村尾記者の三名が乗船し相模湾水深206m潜水した。これは日本初の学術調査目的で建造された潜水艇となった。
 国際船舶工務所が財団法人船舶設計協会に改組されると、緒明は参事・企画課長に就任して艦艇基本計画諸作業を担当。'54 横浜国立大学講師を兼務。'57以降、艦船の基本計画は防衛庁の技術研究所('58.5 技術研究本部に改組)で行うことになったため、海上自衛隊二等海佐に任官。海上幕僚監部技術部艦船課および防衛庁技術研究本部で開発官となる。'59 技術研究本部船舶担当副技術開発官となって艦船基本計画取りまとめの主務担当者となった。この当時、'56からの初代南極観測船「宗谷」の砕氷船への改装を手掛け、'65 就役の二代目南極観測船「ふじ」の主任設計者をつとめた。'70 海将・船舶担当技術開発官を最後に退官し、日本鋼管に参与として入社。
 '74 芙蓉海洋開発が運用する潜水球「うずしお」(下半分がアクリル樹脂製)のアドバイザーを務めていた際、千葉県岩井漁港沖での潜水訓練中に乗組員二名が亡くなる海難事故が起きた。これは潜水中の緊急時のみに電源を遮断してから行うべき操作を、乗員が誤って平時に通電状態で行ってしまったため、電気系統がショートし有毒ガスが発生、浮上後に乗組員二名が亡くなる事故(海難審審判記録より)。この海難事故の責任を感じた緒明は事故の数日後に鉄道に飛び込み引責自殺した。享年59歳。

<戦後における元造船官の活動に関する一考察>
<緖明亮乍の長男 緖明俊様より情報提供>


墓所

*墓所には4基建つ。正面左から和型「緒明家之墓」、裏面「昭和四十八年五月二十四日 緒明亮乍 建立」。右面が墓誌となっている。緒明三良(豊三郎の三男)、司良(豊三郎の次男)、喜久代(豊三郎の長女)が刻む。真ん中に宝篋印塔で「為 緒明家先祖代々之菩提」、左面「昭和拾年三月吉日 功徳主 緒明豊三郎」。右に和型で正面に緒明豊三郎夫妻の戒名、左面「昭和十二年吉祥日建之 施主 緒明白舸」。墓所右手側に洋型「緒明亮乍 幸子」、裏面「昭和49年6月19日 帰幽 59才 / 平成13年9月9日 帰幽 76才 / 幸子.俊.博 建立」と刻む。


【緒明家に関して】
 曽祖父は造船世話掛かりとして伊豆・戸田村(へだむら:静岡県沼津市)の船大工をしていた緒明嘉吉。1854(嘉永7.11)条約交渉のため下田にきていたロシア艦ディアナ号(木造帆船2千トン)が東海大地震による津波で大破し沈没するという事故が起きた。条約交渉どころではなくなったプチャーチン提督は、早速ディアナ号の代船を建造したいと幕府に申し入れる。幕府は、約500人のロシア人を帰国させるためにこれを許可し、西伊豆の戸田村で日露共同の作業が急ピッチで進められることになった。この時、船大工の一人として緒明嘉吉も作業に関わり、これが日本最初の洋式帆船の建造とされている。明治維新後の1872(M5)(異説もある)船匠を継いだ緒明菊三郎は東京で造船所を開設していくことになる〔嘉吉は、1859(安政6)中風(卒中)で倒れ、1872(M5)に病没しており、海軍卿だった榎本武揚の後援を得た東京での事業は1859(安政6)に14歳にして戸田で独立した菊三郎一代、単独のものである〕。
 代々戸田村で船大工であった嘉吉には苗字がなかったが、明治政府は、1875.2.13(M8)あらためて苗字の使用を義務づける「苗字必称義務令」という太政官布告を出し、すべての国民に苗字を名乗ることを義務づけました。船大工の家は、貧しく、母が内職をして家計を助けていました。その内職というのが、下駄などの鼻緒(はなお)を作る仕事。着物は、だいたい60年から70年と長く使用できたため孫の代まで持たせて着るのが一般的。最後も捨てずに、裁いて下駄の鼻緒にした。母が夜明けまで鼻緒を一生懸命作っていた。「鼻緒を夜明けまで」で「緒明」という名字に菊三郎がしたのだそうだ。
 1883(M16)緒明菊三郎は、お台場(第四台場)に移設・拡張した洋式造船所「緒明造船所」で財を成した。菊三郎の長女の なか の婿養子の緒明圭造は実業家で三島楽寿園を買い取った人物として著名。圭造の長男の緒明太郎も実業家で、西郷隆盛嫡男の西郷寅太郎の娘と結婚した。太郎の長女の登美子の婿養子は緒明實。緒明菊三郎以降の方々の緒明家墓所は池上本門寺に建つ。現当主は緖明春雄氏。
 菊三郎の長男の豊三郎は父から造船を習いながら事業を手伝う一方、米国留学から帰国後に英字新聞を発行する等、様々な活動をしていた。また書画を嗜み、巧みであったので諸作品には雅号として白舸を使った。
 菊三郎の子どもは4女1男であり、豊三郎は直系の長男の末子である。前述のとおり、長女 なか の婿養子となった(足立)圭造が菊三郎を継ぐことになったため、豊三郎は廃嫡し分家となった。

<横須賀人物往来>
<人事興信録>
<緖明亮乍の長男 緖明俊様より情報提供>



第353回 潜水艦設計の第一人者 海難事故で引責自殺
緒明亮乍 お墓ツアー 蛟竜・くろしお・うずしお ※再UP


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