鹿児島県薩摩郡宮之城村(さつま町)出身。本名は禎次。川内中学校(鹿児島県立川内高等学校)に進学。同窓の今井国三(後の詩人の今井白楊)と文学を志し、雑誌「秀才文壇」などに投稿を始めた。その後、第七高等学校造士館(鹿児島大学)を経て、東京帝国大学法科大学経済学科を卒業。在学中から尾上柴舟(6-1-16-23)に師事。
9歳で母を、22歳で父を亡くした。「莫哀」の名は、若くして両親を失っていることを「哀しむなかれ」の意味である。1915(T4)処女歌集『春の反逆』を刊行。この歌集の冒頭にも「亡き父母の霊前に獻ぐ」と書いた。
明治後期から大正前期にかけては、短歌雑誌「車前草」を創刊。編集者としては「桜草」や、橋田東聲主宰の「珊瑚礁」など、他の短歌雑誌でも活躍した。のちに短歌雑誌「水甕(みずがめ)」を創刊し、同誌に専念した。
'16 出版社「莫哀社」を起こすも事業に失敗してしまう。翌年、明治製糖に入社して台湾に渡るが、結核に罹り、以降は茅ヶ崎で療養しながら、病床での心境を数々詠んだ。'25(T14)歌集『仰望(ぎょうぼう)』を刊行。二年後、'27(S2)逝去。享年39。没後『岩谷莫哀短歌全集』が刊行された。